「ふるさと」はどこにあるか ――室生犀星「小景異情(その2)」を考える――


信時 哲郎

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
 小景異情(その二)が人口に膾炙されているというよりも、この冒頭の二行だけが人口に膾炙されていると言った方が正確かもしれない。これについて岡庭昇氏は「あたかも都市に流出した民によるふるさとへの追慕というようにうけとられ、感情移入されている」として、それを「誤伝」であると言いきっている。そして「犀星の作品で、ふるさとが遠くからしみじみと想い出されたりしているわけではない。(とてもじやないが)ふるさと(なんてもの)は、遠くにあって(こそ)想い得るもので、そうでなければまっぴらだ……という以外に、ほんらい解釈のしようがない作品なのである。つまり歌われているモチーフは、なによりもふるさとへの憎悪だということだ。」(1)とつづける。
 萩原朔太郎は「これは年少時代の作者が都会に零落放浪して居た頃の作品であ」り、「遠きみやこにかへらばや」を遠いふるさと金沢に帰りたいという意にとり、この作品を望郷の抒情詩として理解した(2)。岡庭氏の言う「誤伝」とはこの朔太郎的な読みを指していると言ってよかろう。
 朔太郎の読み方を最初に、かつ徹底的に覆したのは吉田精一氏である。吉田氏は「これを東京の作でなく、故郷金沢での作品と見る方が妥当だろう。東京にいれば故郷はなつかしい。しかし、故郷に帰れば『帰るところにあるまじ』き感情にくるしむ。東京にいるとき『ふるさとおもひ涙ぐむ』その心をせめて抱いて、再び遠き東京に帰ろう、と見る方が、詩句の上で無理が少ない。更に『小景異情』がすべて金沢をうたっていることも注意せねばならぬ。(都を東京と金沢にわけて考える点も朔太郎の解釈は無理だ。)」として制作地金沢説を出し、「遠きみやこにかへらばや」を、東京に帰りたいとの意にとった(3)。
 実際に作者犀星自身が詩集の年譜に「制作地。石川県金沢市西にある犀川のほとりにある雨宝院といへる寺院。時無草。秋の日。小景異情その他。」と書いていることから朔太郎の言う制作地東京説は誤りであったように思える(4)。しかし、久保忠夫氏によれば犀星はこんなことも言っているようである。
「この詩はどこでお作りになったのですか」というわたしの問に犀星は「このごろ中学校の教科書にのっているので、先生方からよくそういった質問が来る。ある人には『東京で』と答え、またある人には『金沢で』と答えてしまった。芭蕉の『閑さや岩にしみ入蝉の声』の『蝉』と同じで、その人がこれぞと思う方をとればいいんですね……」と答えてくれた。それはそれでいいのだが、わたしは諒承しない。朔太郎はこの詩を契機に「解説」という名の自らの詩をうたったのであり、犀星のことばは明らかに思わくがからんでいる。だからわたしは、鑑賞の領域から両者の発言を除外する。そして、この詩を金沢で「みやこへ」の気持ちを述べたものとうけとれない人達と、ともに詩を語ろうとは思わない(5)。
久保氏は頑強に製作地金沢説を主張しているが、肝心の犀星にこのように言われてしまっては、どうも説得力にかけるようである。犀星の「その人がこれぞと思う方をとればいい」という言い方は、事実がどうこうというよりも、作品そのものを楽しんでくれと、鑑賞者を尊重して鷹揚に言っているようである。しかしこうした言葉を彼に言わせた前提として、「ある人には『東京で』と答え、またある人には『金沢で』と答えてしまった」という事実があったことを重視すべきである。犀星は意識せずにふたとおりの答をしてしまったことを悔いているわけで、本当はどっちで作ったのかという真相について語る意図はまったくない。実際、彼はそれを忘れていたか、あるいはどちらでも大差ない、と思っていたのであろう。東京で作ったのか、それとも金沢で作ったのかいう問題は、このようにそもそも不毛なのである。
 大方の評者は、『遠きみやこ』を少なくとも金沢ではないと考えているようである。けれども、それは薔薇色の生活を期待して、東京に帰りたがっているということではなく、
都会生活に疲れて帰れば、酒乱の義母の冷たい仕打ちに会い、痛恨してまた上京する現実のいずこにも身の置き所なく、魂のふるさとのイメージを求めて彷徨する浪漫主義的感情が比喩も形容も飾らぬ率直な言い方で、高く低くトレモロを奏でている(6)。
を示しているだろうことは疑いもない。しかし作品内の論理が省みられないで解釈がされている限り、今なお不毛な制作地東京・金沢論議から、脱しきれていないという印象を抱かせる。

 この作品は、実に構成がととのっている。つまり、この作品は大きくふたつの部分によって分割でき、一部と二部が正確に対応しているのである。まずAとB、その両者を承けてあとにつなげる「よしや」と「そのこころもて」、そしてaとbである。この詩の解釈については一部、二部にまたがる対句的表現について目をむけねばならないであろう。



   ふるさとは遠きにありて思ふもの

   そして悲しくうたふもの       A



  よしや



   うらぶれて異土の乞食となるとても

   帰るところにあるまじや       a







   ひとり都のゆふぐれに

   ふるさとおもひ涙ぐむ        B



  そのこころもて



   遠きみやこにかへらばや

   遠きみやこにかへらばや       b



 まずAから見ていくことにしよう。先にも述べたごとく、この二行の独立していく傾向が「誤伝」の元兇であると批判されているわけであるが、それは同時に、この二行だけが独立して読まれてしまっては、彼らにしても全くもってその誤解どおりの読み方以外に、解釈のしようがないことを告白したも同じなのである。となれば、苦しい解釈を試みるよりも、ここではふるさとへの安直でセンチメンタルな想いが語られている、とした方がよっぽど「詩句の上で無理が少ない」のではあるまいか。つまりこの二行は、犀星が自分のふるさとへのオリジナルな想いを語る前に、とりあえずしめしておいた、あたりまえの、絞切型的ふるさと観なのである。不毛な都会生活を逃れて、理想化された遠い故郷への想いにつかれるというモチーフは、遠く晋の陶湘明の帰去来辞があり、
 帰去来兮  田園将に蕪れんとす 胡ぞ帰らざる 既に自ら心を以て形の役と為す
 奚ぞ惆悵として独り悲しまん 已往の諌められざるを悟り 来者の追ふべきを知る
 実に途に迷ふこと其れ未だ遠からず 今の是にして昨の非なりしを覚る。
と言うとおりであるし、宮崎湖処子の「帰省」(明治二十六年刊)には
故郷の快楽を幾度説くも、我は自から咎めざるなり。我が所謂ゆる故郷には、村落の連観を含めるなり。故郷には我慰藉を思ひ、村落には我平和を期せり。慈愛、友誼、恩恵、親切、観情等、人間の美徳と称するものは、村落の外何処に求むる。
などといった文を認めることができる。Bを見てみよう。ここにもAで述べられたと同じように、都会人が一般的にいだくであろうような、ふるさとに対する常識的な処し方が書かれているにすぎない。つまりAもBも、犀星の作品にあらわれることから、まぎれもなく「犀星の言葉」でありながら、本来の意味において<犀星の言葉>ではないのである。
 作品解釈の上で、もうひとつかかせないと思われる視点は、漢字とひらがなの書きわけである。今井文夫氏はこれらの書きわけについて「もしも意味があるとすれば印刷したツラの上での問題だと考えた方がよい。漢字で書くのと平仮名で書くのとでは、字ヅラの上で強弱をおこす。それから行の長さを平仮名にして調節するということも考慮にあったのだろう。」とそっけない(7)。しかし、この短い作品のなかで「都」と「みやこ」、「思ふ」と「おもひ」、「帰る」と「かへらばや」のような書きわけが生じたということは、やはりただごととしてすませるわけにいかないし、関良一氏の挙げた、本作品の三度にわたる推敲において、細かい揺れを示す書きわけの過程についても、黙しているだけではすまないと思われる(8)。AやBのふるさとへの憧憬を語る「犀星の言葉」は、この漢字と平仮名による書きわけにより、作品全体と有機的に関係しあって、<犀星の言葉>に発展していくのである。
 AとBだけで犀星のふるさと観ははとんど語りつくされたかの観がある。しかしaとbが現れて初めてオリジナルな発想、すなわち<犀星の言葉>が、差異として表出されることになったのである。諸氏が指摘するところの、冒頭の二行だけが遊離していく傾向をいましめることは、以上の視点をふまえたうえで、はじめて価値のあるものと思われる。
 漢字は硬い印象を与え、逆に平仮名は柔らかい印象を与えるものである。このことからはじめに結論を言ってしまえば、漢字は明確な観念をあらわし、平仮名は気持ちをばくぜんとあらわすとしてよかろう。Aにおける「思ふ」は、Bの「おもひ」に対応しているが、漢字による「思ふ」は理性的に思考すること、平仮名のほうは感情的に思慕するということになる。したがってAの解釈は、「いわゆるふるさとというものは、距離的な遠さにあることによって存在せしめられた、或る場所のことである」ということになろう。
 二行目には「うたふ」という平仮名表記があるが、これも「歌う」という行為の感情的な側面、つまり「詠う」とか、「詩う」とでもいうような気持ちをあらわしていると思われる。多少意訳の感もあるが、だいたい「おもひ」と同じく、「思慕する」の意にとってよいと思われる。よって二行目は、一行目で提示されたふるさとなるものの物理的な定義に加えて、情緒的側面からふるさとを定義づけたと解すことができる。すなわち「人はふるさとという場所を、とかくなつかしく思いだすものである」と。
 aの「帰る」は、bの「かへら」と対応しているが、「帰る」は物理的な距離、すなわち「遠き」を空間的移動によって克服することを意味している。つまり「帰るところにあるまじや」では、ふるさとをいくら空間的においつめていっても、結局それは無駄なこころみであることが語られるのである。したがって第一部は、諸氏の解釈するように、いざふるさとである金沢に戻ってみても、自分のふるさとに対する気持ちは、完全にいやされることはない、という苦い想いが語られているということになる。
 bにおいては、Bの「都」が「みやこ」に、「帰る」が「かへら」になっていることに注意すべきであろう。「都」とは物理的に都である首都東京のことであるから、Bは「ひとり東京のゆふぐれにふるさとを思慕して涙ぐむ」というように言い換えることができるこの常識的なふるさとへのセンチメンタルな想いが、「そのこころもて」という言葉でそのまま引きつがれて、「遠きみやこにかへらばや」に至るわけである。このように見てくると「かへり」たいと思うところの「みやこ」とは「都」において思慕されていることから、少なくとも東京のことではないということになる。つまり「みやこ」は金沢を指す ことになろう。
 諸氏が言うところの「誤伝」が、未だに絶えることがをい本当の理由は、おそらく「そのこころもて」という句の存在によっていよう。岡庭氏は、冒頭の二行だけが読まれるだけで、作品は読まれていないのだと言うが、作品全体を読めば、それこそ明白に「遠きみやこ」は東京ではないことが示されているのだ(9)。もし仮に「みやこ」の三字を伏字にしたとすれば、詩を知らなくとも日本語を知っている人なら、十人中九人までがそこに「ふるさと」という字がかくされていると言うであろう。これはなにも今になって初めて言い出されたことではない。今井文男氏もこの一行が、もっとも曖昧で抽象的な表現であるとして、その解釈にかなり苦労しているようである(10)。しかしここはむずかしい解釈をするよりも、日本語の用法にもっと忠実であってよいのではなかろうか。「みやこ」が「都」と書きわけられたのは、東京と金沢を混同されることを恐れてであったのである。
吟味をして読めば、第八行「そのこころもて」で、その前の第七行までに叙してある「そのこころもて」故郷を出ようとしていることが明らかです。つまり、懐かしい土地を去って、またしても上京しようとしている際の詩であることを読み取れれば、あとは説明不用になります。詩人は、出郷前に、早くも都(東京)から郷里(金沢)を望郷しているという、この詩の倒置された構造に気がつけばいいのです(11)。
 安宅夏夫氏はこのように、「そのこころもて」を用法どおりに受けとめている。その点は評価したいが、このままではまた、先から言っている不毛な制作地東京・金沢論議に足をつっこんでしまっていることになるし、吉田氏が都を東京と金沢にわけて解釈する朔太郎に対して提した疑義に、何の答も出していないことにもなる。
 私たちはこれまで「みやこ」が金沢であるという朔太郎の読みを支持してきた。しかし、何故そこに「ふるさと」という語を使って誤解を避けなかったのか、という疑問も生まれてくる。
 「みやこ」を「ふるさと」と書いてしまっては単なる望郷の抒情詩と読み誤られる恐れがある。そこで「ふるさと」と書くかわりに平仮名で「みやこ」と書くことによって「都」、つまり東京のことをも強すぎるまでに匂わせたのである。この「みやこ」を書くに至って初めて、犀星はふるさとが「自分が生れた土地。郷里。こきょう。」であるばかりでなく、「かつて住んだことのある土地。また、なじみ深い土地。」でもあることを発見したのだ(12)。このふたつの意味における「ふるさと」をまずとらえておくべきであろう。(朔太郎も吉田氏も、ともにこの書きわけのないテクストを使っているようだが、そのことは本論への根本的な批判にはなりえない。ここでは内部の論理をたどつていけば、書きわけを生じるということを言っているからだ。)
 東京に行けば金沢がふるさととなり、金沢に行けば東京がふるさとになる……、この逃げ水のような存在がふるさとであったと言いたげである。しかしどこまで行ってもたどりつけない場所がふるさとであるなら、ふるさとはそもそも「在る」場所ではなく、「作られた」概念であると言ったはうがよくはないであろうか。ふるさとにはたどりつくことができないというのは、論理が転倒していて、そもそもたどりつくことができないところをふるさとと呼んだのではなかったろうか。犀星はこのようなふるさとなどという作られた枕念のことを嫌悪していただろう。しかしそのふるさとという概念がいかに魅力的であったことであろう/ 犀星はこの概念が見せた簡く切ない夢を追いかけているのである。東京でなつかしく思われ、金沢でなつかしく思われた、あのふるさとはどこにあったのだろうか。空間の彼方にも時間の彼方にもないそこ、それなのにかへらばやかへらばやと思慕されたそこ、それは自分が創り出したユートピア(どこにもない場所)であったのだ。そのこころもて「故郷はただ夢の中にのみ存在する」……(13)

 さて以上で言うべきことは言ってしまった。ただ、いままでは『小景異情(その二)』の定稿のみについての解釈であったため、漢字と平仮名の書きわけ等において違いのある第一稿、第二稿の扱いはどうなるのかという異論もおこつてしかるべきと思われる。その点についてもすこし考えてみることにしよう。
 関良一氏によれば、本作品は「朱欒」大正二年五月号のもの、「感情」大正五年七月号のもの、大正八年九月刊の『抒情小曲集』所収のものがある(14)。

  その六

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆうぐれに
ふるさと思ひなみだぐむ
そのこころもて遠き都にかへらばや
とほき都にかへらばや。
       (「朱欒」大正二年五月号)

  その五

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの。
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや。
ひとり都のゆうぐれに
ふるさと思ひなみだぐむ
そのこころもて遠き都にかへらばや
とほき都にかへらばや。
       (「感情」大正五年七月号)

 第一稿と第二稿では、その六がその五になっていること、句点の有無のほかには差がないので、同じものだとして扱ってさしつかえあるまい。第三稿との間でも句点が省かれたこと、「ゆうぐれ」が「ゆふぐれ」に改められたことなどは、とりわけ大きな違いであるとは思われないので、ふれないことにしよう。
 はじめに七行目の「思ひ」が「おもひ」になり、「なみだ」が「涙」になった過程を考えよう。漢字と平仮名の書きわけについて、いままで見てきたと同じ尺度でもって解釈し直すと、第一、第二稿では「理性的な思考がなみだをながさせることになった」次第を語るのに対して、第三稿では「情緒的に思慕する結果、涙というものをながしてしまった」に改められたわけである。前者でも充分に意味はとおるが、後者の方がより本来の関係に近いということが言えよう。
 問題は最後の八、九行であろう。「そのこころもて」が一行として独立していないこと、「みやこ」は「都」と書かれ、二度日の「遠き」が「とほき」になっている。第一点は、シンメトリーの効果、対句的表現をとつた結果の改稿であると言えばそれですむであろう。では第二、第三点はどうなるか。「都」と漢字で表記されているのであるから先の論理にしたがえば東京のことを指しているとしか考えられないようである。それでは私たちは「無理の少ない」吉田氏の読み方に屈服せねばならないのだろうか。いやたぶんそうではない。というのは次の「遠き」が「とほき」と記されているからである。八行目の「遠き都」は東京、そして先に触れた「そのこころもて」の用法からして、金沢のことをも同時に指すと言えよう。九行目の「とほき都」は時間的な遠さや、空間的な遠さを指すのみでなく、もっと感情としての「とおさ」をも含んだ「都」、すなわち東京や金沢といった具体的な場所としてのふるさとではなく、たどりつけない「ふるさと」のことを指しているのである。つまりどの段階においても、最後に語られるのは、「かへる」ことが不可能であるところの本当のふるさとへの憧憬であり、第一稿から第三稿まで同じことを述べていることになる。
尤も、私は過去追憶にのみ生きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不満足の為めに美くしい過ぎし日の世界に、懐かしい霊の避難所を見出さうとする弱い心からかういう所作にのみ耽ってゐるのでもない。「思ひ出」は私の芸術の半面である(15)。
北原白秋は詩集『思ひ出』の序文、「わが生ひたち」の中でこのように言っている。ここではふるさとという場所についても、その懐かしい時間についても、かなり冷静な目で捉えられている。白秋や犀星はそれぞれ家庭の事情から、ふるさとをストレートに賛美できる心境になかったと言うこともできよう。しかし彼らが多少人より冷静にふるさとを見ていたにしても、時としてこみあげてくるふるさと懐古の気持ちをおさえられたということではないだろう。普段が冷静であったから、むしろ常人以上にその想いに圧倒されることがあったのかもしれない。
如何なる人生の姿にも矛盾はある。影の形に添ふごとく、開き尽した牡丹花のかげに昨日の薄あかりのなほ顫へてやまぬやうに、現実に執する私の心は時として一碗の査古律に蒸し暑い郷土のにおひを嗅ぎ、幽かな泊芙藍の凋れにある日の未練を残す。見果てぬ夢の欺きは目に見えぬ銀の鎖の微かに過去と現在とを継いで慄くやうに、つねに忙たゞしい生活の耳元に啜り泣く(16)。
このように冷静な思考をしばしば無効にするほどの想いを語る言葉こそ、抒情詩と呼ばれているものなのではないだろうか。

※ 引用文中の旧漢字は新漢字に改めた。


(1) 岡庭昇 「近代的由我と『ふるさと』」『解釈と鑑賞』(昭和五十三年二月)
(2) 萩原朔太郎 「室生犀星の詩」『日本』(昭和十七年五~六月)
(3) 吉田精一 「室生犀星」『日本近代詩鑑賞』(昭和二十八年六月)
(4) 室生犀星 「詩集年譜」『感情』二号(大正五年七月)
(5) 久保忠夫 『近代詩物語』 分銅惇作・吉田熈生編 有斐閣(昭和五十三年)
(6) 小出博 『日本文学鑑賞辞典(近代編)』 吉田精一編 東京堂(昭和三十五年)
(7) 今井文男 「室生犀星の詩『小景異情』の考察」 『金城園文』(昭和四十三年三月)
(8) 関良一 「近代詩評釈」 『国文学』(昭和四十二年二、三、五、七、八、九月)
(9) (1)に同じ
(10) (7)に同じ
(11) 安宅夏夫 『日本文芸鑑賞事典6』 ぎょうせい(昭和六十二年)
(12) 広辞苑 「ふるさと」の項 岩波書店 (昭和四十四年 第二版)
(13) (2)に同じ
(14) (8)に同じ
(15) 北原白秋「わが生ひたち」『思ひ出』(明治四十四年)
(16) (15)に同じ

本稿は有光隆司・嶌田明子両氏との討議に基づいている。