銀ぶらする僕  ――「歯車」における視線をめぐって――

信時 哲郎



1.

 芥川龍之介の「歯車」、第一章の「レエン・コオト」は、
僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へ その奥の避暑地から自動車を飛ばした。
と書き始められる。これは既に指摘があるように第六章「飛行機」の
僕は東海道線の或停車場からその奥の或避暑地へ自動車を飛ばした。運転手はなぜか この寒さに古いレエン・コオトをひつかけてゐた。
と対をなしている。つまりこの小説は僕の結婚披露式参列をきっかけとした家・東京・家 という空間の移動が枠組みとしてきちんと設定されていることが了解できる。しかしなぜ 僕が結婚披露式のあとも東京のホテルに滞在せねばならなかったのかは、はっきりしな い。ところで第三章「夜」には、
僕は屈辱を感じながら、ひとり往来を歩いてゐるうちにふと遠い松林の中にある僕の 家を思ひ出した。それは或郊外にある僕の養父母の家ではない、唯僕を中心にした家 族の為に借りた家だつた。(略)しかし或事情の為に軽率にも父母と同居し出した。 同時に又奴隷に、暴君に、力のない利己主義者に変わり出した。………
とあり、また第五章「赤光」では
そのうちに或郊外にある養父母の家を思ひ出した。養父母は勿論僕の帰るのを待ち暮 してゐるのに違ひなかつた。恐らくは僕の子供たちも、──しかし僕はそこへ帰る と、おのづから僕を束縛してしまふ或力を恐れずにはゐられなかつた。
とある。こうした文章からすると、結婚披露式への出席はむしろ口実で、気の休まらない 家から逃れるためにホテル滞在が決意されたと考える方が理解しやすい。
 僕にとって、避暑地にある家も、養父母の家も、共に愛のあふれる場所として意識され ている。しかし僕はその愛あるが故の束縛には耐え切れないのである。他者と同居する 「家」という空間は、僕自身が抱く僕のイメージとは無関係に、「奴隷」「暴君」「利己 主義者」といったさまざまな僕が流通する空間でもある。僕はそういった束縛から解き放 たれる場所、つまり僕自身を群衆の中の一人として、徹底して無関心をきめこんでくれる 都市空間=東京に向かって家を後にしたのだとは言えないだろうか。家族の視線さえ気に なる人間にとって、他者から見て見ぬふりをしてもらえる都市空間こそが、最も自分らし く振る舞える場所だと思ったとしても、無理はないであろう。
 ところで僕の短い東京での滞在期間中に、三回も銀座に出かけていることは重要だと思 われる。なぜなら「歯車」が芥川龍之介の遺稿であるということを保留して、歴史的文脈 の中で捉え直してみると、この小説が当時流行の銀ぶらを丁寧に描いてみせたものだとい うことに気づかされるからである。

2.

 昭和二年五月刊行の松崎天民著『銀座』によれば、銀座は「下町に位置していながら、 何となく山の手気分の濃厚な所さ」ということであるが、今日もその印象に大きな変化は ないと言ってよいだろう(1)。そしてこの「山の手気分」の源流は、明治維新以降、銀座が外 国への窓口として発展し続けてきた歴史に関わっていると考えられる。
 銀座が外国と関わりを持つようになった初めは、明治元年、築地一帯が外国人居留地と なったことである(2)。当初はここが貿易の中心地になる予定であったが、貿易の中心は依然 として港湾都市・横浜のままであったから、東京・横浜間の連絡はいっそう重要になり、 明治五年に新橋駅(旧汐留貨物駅)が設立された。ここが外国への事実上の玄関になり、 銀座は西洋と東京がはじめて出会う場所に位置することになったのである。
 しかし同じ明治五年、銀座一帯は大火事によって、その大部分を焼失していた。都市の 不燃化は以前から問題とされていたことであったが、明治十年、ついに銀座はジョージア ン・スタイルの煉瓦の街に生まれ変わった。かくして銀座は煉瓦街にガス灯が点り、往来 には馬車が走る街、文明開化の象徴として全国的にも有名になった(3)。
 しかし明治末年から大正に至っても、銀座の繁栄は江戸時代以来の盛り場であった浅草 や、商業都市であった日本橋を凌ぐほどではなく、現に大正三年の東京駅完成は、新橋駅 の廃止を意味したので、銀座の衰退が囁かれたりもしたらしい。しかし多くの新聞社や出 版社はここに集中し、しきりと銀座の情報を全国に送り、また洋書を扱う丸善が近いこと もあって、全国のインテリゲンチャの関心はここに集まっていたのである。明治末年にな ると外国文学の影響を強く受けた耽美派の文学者たちがここに集まるようになり、明治四 四年にカフエ・プランタンが開業すると益々銀座人気に拍車がかかった。
 つまり安藤更生が「銀座の事物に必要を感じ、興味を感じるのは、固い江戸の伝統の中 に生きている、そして地理的には便利である下町の人よりは、地方出の官員や知識階級の 多い山の手の方の人達だった」と言っているように、この時期の東京の盛り場は、下町の 庶民を集めた浅草・日本橋と、山の手に住む少数のインテリ階級を集めた銀座という二極 分化の傾向があったのである。
 当時、慶應義塾大学教授であった永井荷風が、学生たちを引き連れてプランタンの二階 で会を催した頃から、慶応の学生たちが地の利を生かして銀座に流れ込むようになり、下 町住人たちの銀座衰退の噂をよそに「東京駅が開通して、旧新橋が廃駅となるに及んで、 銀座は一層散歩街としての観念を明確に」することになる(4)。かくして「銀ぶら」という言 葉も定着し、大正十年にはついにカフエ「ギンブラ」なるものまで登場した。
 そしてこのインテリの街である銀座に変化が起きたのは大正十二年九月の関東大震災で あった。震災によって下町が崩壊し、江戸的情緒を引きずった浅草や日本橋が凋落する と、階級も老若男女も問わず、銀座は一気に繁栄することになる。こうしてごく一部の人 々だけが享受していた銀ぶらが、この時急速に大衆化し、一大ブームを引き起こすことに なるのである。
 吉見俊哉氏は、浅草は<触れる=群れる>街であり、銀座は<眺める=演じる>街であ るという(5)。浅草はたくさんの人がひしめきあい、触れあって一つの群れと化し、そこに一 種の連帯感も生まれたのだが、銀座は人間と人間を隔てる空間が広がり、肌と肌との触れ あい、人間同士の直接の関わりは希薄になる。つまり盛り場が浅草から銀座に変わったと いうことは、単に風俗文化の変化とのみ捉えるべきではなく、都市空間における身のこな しの変化としても捉えられると言う。
 では「歯車」がこの銀ぶらブームの絶頂期とも言える昭和二年の銀座を描いていること をどう考えたらよいのだろう。

3.

 「歯車」の僕は銀座通りに出かける三回のうち、銀座四丁目の教文館の屋根裏に住む老 人を訪れる以外は、いずれもさしたる理由もなくあちこちのショーウィンドウや書店を覗 いてはカッフエに立ち寄るという、文字通りの銀ぶらをしていることがわかる。
 第一回目の銀ぶらの経緯は第二章に記されている。宿泊先である帝国ホテルを出てか ら、おそらく尾張町の交差点(銀座四丁目)あたりで銀座通りに出て、それから西側を通 って北上。「雑誌などを積み上げた本屋」に立ち寄り(当時の記録から判断すると銀座二 丁目にあった大成堂雑誌店だと考えられる)、そしてそのまま日本橋の「丸善の二階の書 棚」(洋書コーナー)を物色するというコースである。
 二回目の銀ぶらは、第四章でホテルの部屋で短篇を書き上げた後「何か精神的な強壮剤 を求める為に銀座の或本屋へ出かけることにした」ことから始まっているが、これも特定 の本を買うために出かけたわけではないところに銀ぶら的要素が見てとれる。
 二冊の本を買ったという本屋がどこであるかは特定できないが、尾張町二丁目の警醒社 書店がキリスト教関係の出版物を主に扱う本屋であることから、銀座四丁目の近藤書店か 教文館ではないかと思われる。その後カッフエに寄ってから、「僕は往来を歩きながら、 いろいろの飾り窓を覗いて行つた。或額縁屋の飾り窓はベエトオヴェンの肖像画を掲げて ゐた。」とある。昭和二年に銀座通りで額縁を専門に扱っていたのは竹川町(銀座七丁 目)西側の八咫屋だけであることから、二回目の銀ぶらは南下するルートを取っているこ とがわかる。
 つまり僕は、銀座通りを一度目は北に、二度目は南に向かうことによって、流行中の銀 座のフルコースを堪能しているのである。
 さらに歯車の時代背景としてもう一つ指摘すれば、僕が東京にやって来たそもそもの理 由である帝国ホテルでの結婚披露式も、当時の流行の最先端であった。従来の挙式や披露 宴は華族会館・水交社・偕行社などで行われていたが、震災で倒壊・焼失したために、ホ テルが注目されることとなり、ことに震災に持ちこたえたライト設計の「新しい帝国ホテ ルのバンケットホール(大宴会場)が最高の結婚式、披露宴会場としてクローズアップさ れることになった」のである(6)。
 このように「歯車」という作品は、主人公の僕が神経衰弱に陥っているという点と、作 者である芥川自身の自殺との関連から見えにくくなっているが、昭和初年の流行と風俗を たくみにとりいれた都市小説として論じられて然るべきなのである。
 とは言っても主人公の僕が、流行中の銀座の風俗に溶け込んでいない点を無視するわけ にはいかない。第二章「復讐」では、
僕の銀座通りへ出た時には彼是日の暮れも近づいてゐた。僕は両側に並んだ店や目ま ぐるしい人通りに一層憂鬱にならずにはゐられなかつた。殊に往来の人々の罪などと 云ふものを知らないやうに軽快に歩いてゐるのは不快だつた。
と記され、現に銀ぶらをしている自分のことを棚に上げて、銀ぶら風俗が一方的に批判さ れている。銀ぶらを「銀座の歩道をショーウィンドーを眺めながら何をするでもなく一方 から他方へ、他方から一方へブラブラ歩く」ものと定義するなら(7)、僕と、往来の人々にな んら差異はないはずである。しかし僕が他者に見られることを嫌って東京に逃れてきたと するなら、きょろきょろした視線を泳がせて軽快に歩く民衆の姿が、僕の気にさわったの も理解できるかもしれない。しかしほかならぬ僕がきょろきょろと視線を動かしているか ぎり、やはり往来の人々との間に客観的な違いはないと言わざるを得ない。
 僕は家族という他者に見られることを嫌って東京に、それも吉見氏の指摘によれば<眺 める>街である銀座に逃れてきたのである。銀座はおりからの銀ぶらブームであったか ら、僕の鬱憤はここで晴らされるかに見える。しかし銀ぶらは流行の真っ盛りにあるのだ から、僕だけが<眺める>作業に熱中できたわけではない。銀座を歩く人波に紛れながら 他者に見られることを回避し続けられるはずなどないのである。
 先に「歯車」を、家族という他者の視線を気にして、僕が家から東京に避難する話であ るとしたが、実はもうその時点で、僕は全く同じ理由によって東京から家に戻ることが決 定していたのである。第一章と第六章の対応、すなわち家・東京・家という空間の移動は このように解されるべきなのである。
 それでは第一章から順に、僕の視線をめぐる一人芝居を追っていくことにしたい(8)。

4.

 第一章で家を離れた僕は、他者の視線から解放され、貪欲な視線を他者に注いでは意地 悪な観察眼の冴えに、自分で喜ぶようにしている。ここではまだ街が他者の視線であふれ かえっていることに気づいていない。従って不安を実感することもないのである。
 僕は上り列車に乗り遅れて駅前のカッフエで時間潰しをするが、早速意地悪い視線で店 中を見回す。すなわち「それはカッフエと云ふ名を与へるのも考へものに近いカッフエ」 であり、「(テエブル・クロオスは)もう隅々には薄汚いカンヴアスを露して」おり、 「埃じみたカッフエの壁には「親子丼」だの「カツレツ」だのと云ふ紙札が何枚も貼つて あ」り、そこで「僕は膠臭いココアを飲」むのである。
 続いて、東京に向かう列車の中でも僕の視線は遠慮なく乗り合わせた女生徒達に注が れ、意地悪い批評をつけ加えずにはいない。「僕はふと彼女の鼻に蓄膿症のあることを感 じ、何か頬笑まずにはゐられなかつた」。そして「彼等は僕には女生徒よりも一人前の女 と云ふ感じを与へた。林檎を皮ごと噛ぢつてゐたり、キヤラメルの紙を剥いてゐることを 除けば」。さらに「彼女だけは彼等よりもませてゐるだけに反つて僕には女生徒らしかつ た。僕は巻煙草を啣へたまま、この矛盾を感じた僕自身を冷笑しない訳には行かなかつ た」といった具合である。しかしいずれの場合も僕の視線は全くの一方通行で、女生徒達 との交流が描かれないばかりか、僕に対する視線についての言及もまるでなく、僕につい て批評(冷笑)するのもやはり「僕自身」なのである。
 そして僕は或る駅のプラットフォームに降り立つが、そこで出会ったT君の「逞しい彼 の指には余り不景気には縁のない土耳古石の指輪も嵌つてゐた」ことをまず目聡く見つけ 出す。そうして「いろいろのこと」、つまり「僕等の間には巴里の話も出勝ちだつた。カ イヨオ夫人の話、蟹料理の話、御外遊中の或殿下の話」をして、同じ車内に乗り合わせた 女性の醜聞を囁きあうのである。しかしここでも僕を見る他者の視線については、一度た りとも言及されない。T君にしたところで、噂話こそすれ、僕に向かって近況を訪ねるこ とさえしない。つまり僕は常に見る者として、主体者として振る舞い続け、見られる者と しての僕は、ついにあらわれないままなのである。
 そんな僕を不安にさせるのはわざとらしく頻出するレエン・コオトのオブセッションで はなく、むしろ次に登場する歯車ではないだろうか。なぜならこの半透明の歯車は「半ば 僕の視野を塞いでしまふ」ものだからである。見ることが妨げられるというのは、僕の存 在の根拠を奪われることであり、見られるだけの存在に成り下がることをも意味した。だ から早速「左の目の視力をためす為に片手に右の目を塞いで見た。左の目は果して何とも なかつた」と視力検査をするのである。
 次に結婚式の披露宴の部分が来るのだが、ここではまず僕が「テエブルの隅に坐」るこ とに注意したい。さきほどのカッフエでも「僕は隅のテエブルに坐」ったし、第三章で入 ることになるカッフエでも「一番奥のテエブルの前に」座り、第四章でも、カッフエの 「一番奥のテエブルの前」に座る。僕が必ずといっていいほど「隅」や「奥」に座るの は、全体を見渡すのに都合がよく、しかし他者からは一番目につきにくい場所だからであ ると思われる。
 さて、そんな僕は、披露宴会場の明るい電燈の下、だんだん憂鬱になってくる。
僕はこの心もちを遁れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬 髯を伸ばした老人だつた。のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。
と、また周到な観察の記述があってから、
僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん病的な破壊欲を感じ、堯舜を架空の人物 にしたのは勿論、「春秋」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。す るとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやう に僕の話を截り離した。
とある。ここで明らかなのは、僕が憂鬱から遁れるために試みたのが、実は会話ではない ということだ。僕の楽しんでいるのは、古典の話などではなく、名高い漢学者が白い頬髯 を伸ばしていることであり、また彼が露骨に不快な表情をすることであった。しかもその 漢学者が「少しも僕の顔を見ずに」いるのだから、これにまさる遊戯はないのである。
 披露宴のあと、僕はホテルの部屋に入るが、ここで僕は初めて難問に直面する。
僕は壁にかけた外套に僕自身の立ち姿を感じ、急いでそれを部屋の隅の衣装戸棚の中 へ抛りこんだ。それから鏡台の前へ行き、ぢつと鏡に僕の顔を映した。鏡に映つた僕 の顔は皮膚の下の骨組みを露はしてゐた。
僕が僕を見るというのは、見るということにおいて僕を満足させると同時に、見られると いう恐怖にさらされることをも意味する。僕は不吉さに耐え切れずに部屋を出て、ホテル の中を歩き回ってから、再び部屋の前に立って考える。
が、戸をあけてはひることは妙に僕には無気味だつた。僕はちよつとためらつた後、 思ひ切つて部屋の中へはひつて行つた。それから鏡を見ないやうにし、机の前の椅子 に腰をおろした。
つまり見られる僕を思い出させる鏡という装置は、あくまで恐ろしいものとして避けられ 続けているのである。
 さてこれまでたどってきた第一章を顧みると、見ることだけに熱中する僕の傲慢さの陰 に、見ることができなくなる恐怖、自分が見られる恐怖があったことが解る。つまりお互 いの視線が交錯する「家族」という場所から、一方的な視線を投げかけるだけで済む(と 錯覚していた)都市という場所まで避難したものの、ここも究極の安全地帯ではないとい う予感が漂いはじめるのである。

5.

 続く第二章「復讐」からは、僕が鏡に向き合うと同じような不安、つまり「見る」とい う行為が、ただちに「見られる」ことに反転されるという経験が、何度も何度も反復さ れ、強迫観念となって僕を追いつめる。
 僕はホテルの自分の部屋でトルストイのPolikouchka を読み始める。本を読むというこ とは、見ることだから、僕が興味をひかれるのも当然だろう。僕は早速「この小説の主人 公は虚栄心や病的傾向や名誉心の入り交つた、複雑な性格の持ち主だつた」と、他者の分 析に取りかかるのだが、「しかも彼の一生の悲喜劇は多少の修正を加へさえすれば、僕の 一生のカリカテュアだつた。殊に彼の悲喜劇の中に運命の冷笑を感じるのは次第に僕を無 気味にし出した」と、他人への視線は、いつのまにか僕自身への視線に反転してしまうの である。
 続いてホテルのコツク部屋に立ち入ると、「白い帽をかぶつたコツクたちの冷やかに僕 を見てゐるのを感じた」と、初めて現実の他者の視線を意識する。一般の客がコツク部屋 などに入れば不審がられるのは当然のことなのだが、「同時にまた僕の堕ちた地獄を感じ た」というふうに、あくまで僕の内部にその根拠があると思い込んでいる風である。第一 章と比べて他者の視線を意識できるようになっているが、その視線の意味を他者の側に立 って理解しようとする気はまるでないのである。「自分だけが見ている」という自意識に 他者の介入する余地はないが、かといって「自分が見られている」という意識に凝り固ま ってしまっても、他者の介入する余地はないのである。その意味で僕が囚われているの は、他者を気にする自意識であって、他者そのものは遂に問われることがないのである
。  次に街頭で「金鈕の制服を着た二十二三の青年」に話しかけられるが、僕はまず「黙つ てこの青年を見つめ、彼の鼻の左の側に黒子のあることを発見」するのである。しかし第 二章では、僕が一方的な視線を投げかけるだけでは話が済まなくなっている。
   「Aさんではいらつしやいませんか?」
   「さうです。」
   「どうもそんな気がしたものですから、………」
   「何か御用ですか?」
   「いえ、唯お目にかかりたかつただけです。僕も先生の愛読者の………」
青年の「先生にお目にかかりたかった」という最大限の尊敬をこめた言葉が、「僕はもう その時にはちよつと帽をとつたぎり、彼を後ろに歩き出してゐた。先生、A先生、・・そ れは僕にはこの頃ではもっとも不快な言葉だつた」という反応をひきだしている。群衆の 中に埋没することを目的として都市にやって来たというのに、僕は「A先生」と固有名で 呼ばれてしまったのである。
 それから鉄道自殺によって前日に夫を失った姉の家を訪ねるが、こんなところがある。 「体の逞しい姉の夫は人一倍痩せ細つた僕を本能的に軽蔑してゐた。のみならず僕の作品 の不道徳であることを公言してゐた」。それに対して「僕は冷やかにかう云ふ彼を見おろ したまま、一度も打ちとけて話したことはなかつた」というのだ。僕の義兄に対する不快 感は、僕の体や作品を酷評したために発したものではないだろう。僕を対象として把握し ようとしたからではなかろうか。他人が視線を持っているなど、僕には想像もつかないの である。僕は姉の夫と同じレベルに立って、論戦するなどという気にはならない。姉の夫 よりも更に高いところから、「冷やかに見おろして」やり過ごそうとするのである。
 そして件の銀ぶらのシーンがくるのだが、そこで「僕の背中に絶えず僕をつけ狙つてゐ る復讐の神を感じ」るという記述があるのも、たえず僕が何者かに見られながら生きてい るという<予感>を語った言葉だと考えることはできないだろうか。

6.

 第三章「夜」にはいると、ここにも本を読む場面が出てくる。
僕は丸善の二階の書棚に僕がストリントベルグの「伝説」を見つけ、目を通した。そ れは僕の経験と大差のないことを書いたものだつた。
やはり貪欲な僕の視線は、僕自身を読み取ってしまう。いろいろな本を引っぱりだしてみ ても、「なぜかどの本も必ず文章か挿し絵かの中に多少の針を隠してゐた」という。遂に 「『マダム・ボヴァリイ』を手にとつた時さへ、畢竟僕自身も中産階級のムツシウ・ボヴ ァリイに外ならないのを感じた」ということになる。
 ホテルのロビーでは、或る先輩の彫刻家に対して「彼はぢつと僕の顔を見つめた。僕は 彼の目の中に探偵に近い表情を感じた」とある。これが僕にとって、どれだけ恐ろしい経 験であったか、もう説明の要はないだろう。さらに「僕は彼の内心では僕の秘密を知る為 に絶えず僕を注意してゐるのを感じた」と書かれている。

7.

 第四章「まだ?」で、僕は銀座通りで高等学校以来の旧友と出会い、早速「この応用化 学の大学教授は大きい中折れの鞄を抱へ、片目だけまつ赤に血を流してゐた」ことを指摘 する。「この頃は体は善いのかい?」という友人の問いに対して、僕は「不相変薬ばかり 嚥んでゐる始末だ。」と、自分を詮索するような質問にもちゃんと答えている。しかし 「僕もこの頃は不眠症だがね」と言われると、「どうして君は『僕も』と言ふのだ?」と 問い質さずにはいられなくなる。普通の神経の持ち主なら気にもとめないことであろう が、僕の不眠症をあたりまえのこととして話を進める友人に、敵意とも恐怖ともつかない 感情が生まれたのであろう。
 さて、ホテルの一室に戻ると、僕は「僕自身の肖像画」と後に説明される「新しい小 説」の執筆にとりかかる。
一時間ばかりたつた後、僕は僕の部屋にとぢこもつたまま、窓の前の机に向かひ、新 しい小説にとりかかつてゐた。ペンは僕にも不思議だつたくらゐ、ずんずん原稿用紙 の上を走つて行つた。しかしそれも二三時間の後には誰か僕の目に見えないものに抑 へられたやうにとまつてしまつた。僕はやむを得ず机の前を離れ、あちこちと部屋の 中を歩きまはつた。僕の誇大妄想はかう云ふ時に最も著しかつた。僕は野蛮な歓びの 中に僕には両親もなければ妻子もない、唯僕のペンから流れ出した命だけあると云ふ 気になつてゐた。(中略)僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つ た。僕の影も勿論微笑してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第二の僕のことを 思ひ出した。第二の僕、独逸人の所謂Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたこ とはなかつた。しかし亜米利加の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊 下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達てはつい御挨拶もしませんで」と 言はれ、当惑したことを覚えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚の翻訳家も やはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来る のかも知れなかつた。若し又僕に来たとしても──僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机 へ帰つて行つた。
「自叙伝」を書くというのは、僕が僕自身を描くということ、つまり僕が僕を見るという 恐ろしい行為であったはずだ。しかし第一章ではあれほど鏡を見ることを避けていた僕が 「僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つた」とあり、見られる僕と正 々堂々と向き合うことができたのだから、この時、自叙伝の執筆は積極的に肯定されたと 言っていいだろう。
 続いて僕は「第二の僕のこと」を思い出す。第二の僕と言うのは、第一の僕にとっては 身に覚えのない、ただK夫人や隻脚の翻訳家に見られるだけの、純粋な客体としての僕で あり、主体としての「見る僕」とは直接関係がないという、いわば依代のようなものであ る。そこで僕は、「死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかつた」と都合の良い ことを考え、見る僕が現に被っている、見られるという災難を、虚像に過ぎない第二の僕 に負わせて、なんとか精神のバランスを保とうとしている。
 しかしその一方で「若し又僕に(死が)来たとしても──」という可能性についても考 えている。この「──」には「見る僕が死んでも、見られる僕がいるから安心だ」という 意味の言葉が含意されていそうだが、そうとするならば、実像だと信じるところの<見る 僕>を放棄して、虚像に過ぎない<見られる僕>として生きていくことを容認するという 危険な仮定をしていることになる。
 引用部分の初めの方に「僕には両親もなければ妻子もない。唯僕のペンから流れ出した 命だけある」とあったが、これは親も子もいないとして僕の肉体、つまり現にペンを執り 小説を書いている実体としての僕(見る僕)を否定し、書かれている虚像の方の僕の命 (見られる僕)に同化しようというのだから、これも危険な仮定であると言える。
 第四章は、第一章の半ばから表面化してきた<見られる僕>の問題に対して一つの態度 表明、つまり<見る僕>以外の存在を認めなかった僕が、<見られる僕>の存在を認めざ るを得なくなったことを表明する章だということができる。しかし僕の見ることに対する 拘りはなおも続くのである。

8.

 第五章「赤光」にはいると、或聖書会社の屋根裏にいる老人を訪ねるが、その帰り道は 「人通りの多い往来はやはり僕には不快だつた。殊に知り人に遭うことは到底堪えられな い」ので、「努めて暗い往来を選」んで「盗人のやうに歩いて行」く。途中で立ち寄った レストランのバーでは新聞記者らしい男が何かを小声に話している部分に行き当たるが、 そこでは「僕は彼等に背中を向けたまま、全身に彼等の視線を感じた。それは実際電波の やうに僕の体にこたへるものだつた。彼等は確かに僕の名を知り、僕の噂をしてゐるらし かつた」という体験をする。
 続いて三たび、本を読む場面になり、
 僕は又机に向ひ、「メリメエの書簡集」を読みつづけた。それは又いつの間にか僕 に生活力を与へてゐた。しかし僕は晩年のメリメエの新教徒になつてゐたことを知る と、俄かに仮面のかげにあるメリメエの顔を感じ出した。彼も亦やはり僕等のやうに 暗の中を歩いてゐる一人だつた。暗の中を?──「暗夜行路」はかう云ふ僕には恐し い本に変りはじめた。僕は憂欝を忘れる為に「アナトオル・フランスの対話集」を読 みはじめた。が、この近代の牧羊神もやはり十字架を荷つてゐた。………
とあるが、三章、四章では僕を慰めてくれた「暗夜行路」や「メリメエの書簡集」も、五 章では不吉な本に変ってしまっていることが注目される。
 このほか「あなたの『地獄変』は……」というファンレターにある言葉が「僕を苛立た せずには措かなかつた」のは、未知の人間に僕が語られているからだろうし、「赤いワン ・ピイスを着た女は小声に彼等と話しながら、時々僕を見てゐるらしかつた」という件り もあって、見られることについての強迫観念に取りつかれているのがわかる。
 五章での僕は、それでも見ることをやめようとしない。しかし他者をじっくり観察する 余裕はもはやなく、「他者に観察される自分」の記述で精一杯になっている。しかしそれ は先にも述べたように、現実の他者のあずかり知らぬことであって、僕が自意識のスクリ ーンに勝手に映し出した幻影に過ぎないのである。
 さて「僕自身の肖像画」である小説の方はどうかというと、「絶望的な勇気を生じ、珈 琲を持つて来て貰つた上、死にもの狂いにペンを動かすことにした。二枚、五枚、七枚、 十枚、・・原稿は見る見る出来上がつて行」くということだから、僕は「書く」ことによ って「書かれる」ことを余儀なくされている。それは自分が生きるために自分を殺そうと すること、つまり自殺行為にほかならない。

9.

 僕は家族の視線から逃れ、自分の視線を注ぎたいだけ注げる街として銀座にやってきた はずであったが、その試みは完全な失敗に終わった。終章である第六章「飛行機」では、 刀折れ矢尽きて東京から避暑地にある家に舞い戻ることになる。第一章ではあらゆるもの に貪欲な視線を注いでいた僕が、ここでは積極的に他者の批評を受け入れるようになって おり、その意味でも対照的であると言える。
例えば妻の弟は僕について「兄さんは僕などよりも強いのだけれども」とか「強い中に 弱いところもあるから」と批評する場面が描かれており、更に二人は、
「妙に人間離れをしてゐるかと思へば、人間的欲望もずゐぶん烈しいし、……」
「善人かと思へば、悪人でもあるしさ。」
「いや、善悪と云ふよりも何かもつと反対なものが、……」
「ぢゃ大人の中に子供もあるのだらう。」
「さうでもない。僕にははつきりと言へないけれど、……電気の両極に似てゐるの かな。何しろ反対なものを一しよに持つてゐる。」
という会話をし、僕はここでも妻の弟が「僕には肉体を脱した精神そのもののやうに見え る」ことを指摘せずにはいないものの、妻の弟は、僕よりも僕を知っている人物として描 かれていることに注意すべきだろう。僕はここで恐怖こそ語ってはいないが、見ることよ りも見られることに身を委ねかけているのがわかる。
さて、ここでまた歯車が現れる。それはやはり「僕の視野を遮り出」すものとして登場 し、あたりの景色も「丁度細かい切子硝子を透かして見るやうにな」って、一種の視覚の 危機というべきものが訪れる。そして
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、 烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の瞼の裏に銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼が 一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目 をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一 度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕 はふとこの間乗つた自動車のラディエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思 ひ出した。………
とある。僕は の裏に見えるものにまで拘っているとはいうものの、「見る」ことによる 外部世界との繋がりを、ついにここで絶ってしまっている。つまりこの時から僕は外部世 界に対して、ただ見られるものとしてのみ、存在し始めることになるのである。
 そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駆け下りて行 つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の 前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへ てゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
 「どうした?」
 「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやつと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
 「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさう な気がしたものですから。……」
 それは僕の一生の中で最も恐しい経験だつた。・・僕はもうこの先を書きつづける 力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛であ る。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?
なぜこれが「最も恐しい経験だった」のかと言えば、目をつぶることによって完全に無 防備な状態にある僕が、一方的に他者に覗かれ、しかも僕以上に僕のことを的確に見抜い てしまったからであると思われる。
見る僕の完全な消滅は「僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない」として、見 ることと共犯関係にあった、書くことを放棄する部分にも明らかである。そして「かう云 ふ気もちの中」に生きること、つまり見ることを断念して、見られるものとしてのみ生き ることを「何とも言はれない苦痛」だとして、むしろ死を望むのである。しかし、その際 も「僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか」というのだから、僕は もう僕自身に対する働きかけもできず、純粋なる客体として、つまりされるがままの存在 として、他者の前に投げ出されるのである。<見る僕>として自己同一を図ってきた僕が <見られる僕>としての生を強いられることは、僕というものの解体を意味する。そして ばらばらになった僕を最構築するための核は遂に見いだせないのである。

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 いち早く西洋の文物を取り入れ、その精神的刺激をバネにして抜きんでること、それが 明治・大正型の古いタイプの知識人の生き方であり、ひいては僕の生き方でもあった。つ まり銀座に出向いては、丸善で洋書を買い、銀座通りでしゃれた西洋風の小物を買い、カ フエ・プランタンで知識人同士で意見を交換しあうといった生活こそが、この世代の知識 人にちょうど良いのであった。しかし昭和二年の銀座は、人々が「罪などと云ふものを知 らないやうに軽快に歩」き、通りすがりの学生に「A先生」と声をかけられるような街で あって、もう知識人だけが手軽に西洋の文物を弄ぶことのできる安全地帯ではなかったの である。銀座はもの珍しい物事にふれようと眼を光らせている大衆がひしめいており、彼 らは僕のことさえ興味本意で覗き込もうとしている。僕の銀座に対する欲望と幻滅が同時 に存在している裏にはこうした事情が関わっており、それはあたかも海外旅行中の日本人 が、お互いに顔をそむけ合うのに似ている。
 そしてこうした僕の昭和二年の東京観が、作者である芥川龍之介その人の昭和二年の東 京観と一致していたことは想像に難くない(9)。二十歳の頃、丸善の二階でモオパスサン、ボ オドレエル、ストリントベリイ、イプセン、ショウ、トルストイ等々を物色しながら、本 の間を動いている店員や客を見下ろし、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と呟 き(或阿呆の一生 時代)、二十九歳の頃、ヴオルテエルにもらった人工の翼で、「みす ぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登っ て行」こうとした(同 人工の翼)芥川である。
 「歯車」には震災後の東京の街が描かれている。しかしここにはこの時期に生まれたモ ダン都市の新しさ楽しさを謳歌する多くの出版物とは全く別のムードが漂っている。昭和 初年の都市は明治・大正型の知識人には居心地の悪いものであり、彼らを郊外(避暑地に ある僕の家)に追い出す役割しか持っていないのである。自他共に「東京人」を認める芥 川龍之介が、「歯車」で東京から放逐される旧・知識人を描き終えた時、彼にふさわしい 時代も場所も、もうこの世のどこにもない、と思ったとしても無理もないかもしれない。

 注)

1 ちなみに芥川龍之介は明治二十五年、牛乳搾取業・新原敏三の長男として、この外国人居留地内の京橋区入船町に生まれている。
2 芥川作品における見ることと見られることについては、石割透氏の「『世之助の話』『袈裟と盛遠』など 視ること・視られること」(『<芥川>とよばれた藝術家』・平成四年・有精堂)に詳しい。「歯車」については、詳細な分析を欠いているが「<僕>は、都市の不特定多数の群衆からの見返されるまなざしに強迫観念に近いものを感じて怯え続け、<ホテル>という密室に潜伏し続ける筈である」という指摘がある。
3 松崎天民『銀座』(原版 昭和二年・銀ぶらガイド社/復刊 平成四年・中公文庫)
4 藤森照信『明治の東京計画』(平成二年・岩波同時代ライブラリー)によれば、銀座が繁栄した理由は、日本橋一帯と比較して次のようにまとめることができると言う。まず第一に銀座が新時代の新商品を真っ先に取り入れる街であったこと。第二に煉瓦敷きの歩道によって、行き交う車や雨風の影響を受けずに買い物ができるようになり、またガス灯により夜の買い物も自由になったこと。第三にショーケースやショーウィンドウの設置により、多種の商品を陳列し、不特定多数の客を集めたこと。買い手側からすれば、自由に商品を眺めることができるようになったこと。第四にさまざまな宣伝活動が行われ、集客力を増加させたこと、である。
5 安藤更生『銀座細見』(原版 昭和六年・春陽堂/復刊 昭和五二年・中公文庫)
6 吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(昭和六二年・弘文堂)
7 『帝国ホテル百年史 1890-1990』(平成二年・帝国ホテル)
8 『江戸東京学事典』(昭和六二年・三省堂)
9 前田愛は「芥川と浅草 ・都市空間論の視点から・」(『前田愛著作集第五巻 都市空間のなかの文学』・平成元年・筑摩書房)で、「歯車」における芥川が帝国ホテルの設計者・ライト独特の空間構成に言及せず、「海のある風景」を幻視するだけであることから、「二〇年代の東京の現実にたいする頑なな拒否の姿勢」を読み取っている。

(一九九五・二・十一)