佐藤春夫「美しい町」論  ――「かはたれ」の物語――
                                        信時 哲郎


 
 昼が夜に変わる時、あるいは夜が昼に変わる時のことを「かはたれとき」という。昼と夜が、そして夜と昼が入れ替わる時、「彼」が「誰」であるかの見分けがつけにくくなるからだというのが語源らしい。ちなみに「たそかれとき」は、「誰ぞ彼」と問いたくなるような時間のことを言う。「かはたれ」は主に朝方を指すが、夕方についても用いられ、「たそかれ」の方は夕方のみを指す(1)

 ……さて今回、なぜこのような言葉をサブタイトルにしたかというと、「美しい町」のキーコンセプトである<二つの世界が融合された時間、そして空間>のことを、一言で表現してくれる言葉が他に見つからなかったからである。こうしたタイトルを思いつくきっかけになったのは、作中にあるこんな仕掛けである。

 語り手である洋画家のEは、アメリカ帰りの旧友・川崎禎蔵から「美しい町」を一緒に作ろうと誘われるが、この時、Eが川崎の宿泊先であるホテルに呼び出されるのは「夕方の六時ごろ」となっている。一方、結末近くになって「美しい町」の建造計画が破綻し、二人が別れるのは「全く明けて居て、併し未だ日の出ない」頃、となっている。つまりこの作品は夕方にはじまり、朝方に終わるという構造になっており、それは換言すれば二つの「かはたれとき」に挟まれるようにして物語が成立している、ということになる。

 「彼は誰」であるのかわからない。つまり突然目の前に現れた川崎が、いったい何者なのかわからないというのは、この物語における最大のミステリーだと思われるが、彼の不思議さ、曖昧さを醸し出すための舞台装置として、この二つの「かはたれとき」は実にうまく機能しているとは言えないだろうか。作品に不思議な雰囲気をもたらしているのは、おそらくはこの二重性(=かはたれ)のせいであろう。

 しかし「かはたれ」的な様相を示すのは、なにも時間の設定だけではない。謎の人物である川崎は、アメリカ人とのハーフ、つまり二つの世界の融合そのもの、つまり洋の東西のちょうど「かはたれ」に位置づけられており、さらに彼は、夜に昼の要素を持ち込み、また昼に夜の要素を持ち込む男、つまり敢えて我が身を二重性のなかに置こうとして生きる男、としても描かれているわけである。

 このように「美しい町」は、「かはたれ」的人物である川崎をめぐる物語であるから、作品自体もまた「かはたれ」的な色彩を帯びる結果となっている。そしてこれは作者である佐藤春夫その人の属性でもあった。

 佐藤春夫が「テーゼとアンチ・テーゼとを同居させて一向苦にせぬような人となり」であること(2)、つまり二つの相対立するものに同時に心を惹かれる人物であるという指摘はかねてからなされており、「美しい町」についてもこうした点が指摘されることはあった。しかし未だ真剣な論議の対象になっているとは言えず、またその発掘も途上であるように思われる。本論では、この徹底して「かはたれ」的な作品である「美しい町」を検証することによって、大正作家・佐藤春夫の「位置」について考察してみることとしたい。

 

   Ⅰ 「中洲」という場所

 

 数々の「かはたれ」的な仕掛けの中で、最も象徴的なのは、作品の舞台が東京・隅田川の中洲に設定されていることだろう。

 美しい町をここに作ろうという「Lucky idea」の元となった江漢の絵について、作品にはこうある。

それは何でも銅版の上へ緑とオークルジョンとを基調にしてあっさりと淡彩したもので、ところどころにあつたジョンシトロンはあまり淡いのでもう消え入りさうになつて居た。地平線を画面の三分の一よりもつと低く構図して、そこにはささやかな家並みがあり、あまり大きくない立樹があり、それに微細な草の生えて居る道の上には犬と幾人かの小さな人間とが歩いてゐた。確か、その極く小さな人間の衣物にはくつきりしたピンク色がぽつちりくつ附いてゐてエフェクティブであつた、広い空には秋の静かな雲が斜めに流れて居た。

図1 三囲之景

 図1と見比べてみると、ここで佐藤の言っている絵が江漢のこの絵であることは間違いない。色についても一致が確認できる。

 しかしここで問題になってくるのは、中村三代司氏が指摘するように(3)、この絵が実は同じ江漢の作品ではあっても「三囲之景図」だ、ということである。Eは絵そのものよりも「NAKASU」の六文字に惹かれたとあるが、本来ならここは「MIMEGULI」の八文字、としなければならなかったわけである。

 ややこしいのは、江漢が「中洲」の絵(図2、3)も描いていたということだ。佐藤は「私はその時に一度見たきりであるから、同じ人の他のものと混同してゐないとも限らないが」とわざわざ書いているので、佐藤の単純な思い違いだったと言うこともできるかもしれない。しかしわざわざ作中人物にそう言わせているのは、どこかわざとらしくはないだろうか。そもそも絵画に詳しい佐藤が、あれほど細部まで絵柄や色について再現し、それからアルファベットの文字が印象的であったなどということまで書いていながら、当のタイトルだけ間違えるということは、まずありえないと言うべきではなかろうか。


図2 中洲夕涼


図3 江戸橋より中洲を望む

 ではなぜ佐藤は「三囲之景図」を引用しながら、ユートピア建設の場としては、中洲を選んだのだろう。また、こう問うこともできる。なぜ佐藤は、中洲を舞台とした作品を書きながら、江漢の「中洲夕涼図」や「江戸橋より中洲を望む」(これは近年になってようやく江漢の作だと言われるようになったものなので、佐藤はこの絵の存在を知らなかったか、あるいは存在こそ知っていても、それが江漢の筆であるということは知らなかったと考えられる)の絵を取り入れなかったのだろう。

 端的に言えば、佐藤は「三囲之景図」の絵柄が気に入り、「中洲夕涼図」の絵柄が気に入らなかったから、である。「三囲之景図」は佐藤が生まれ育ち、生涯愛してやまなかった熊野川河口に似ていないこともなく、のどやかな風景はたしかに「美しい町」にふさわしいように思われる。一方「中洲夕涼図」の方はというと、これもたしかに隅田川の川岸の風景ではあるが、川岸には茶屋がぎっしりと立ち並び、川には夕涼みの船が、これまた隙間もないくらいに繰り出しているという構図、つまり風景画というよりは風俗画に近い仕上がりとなっている。

 「美しい町」の発案者である川崎は、そこに住む人について風変わりな条件を出しており、そこには「自分達で択び合つて夫婦になつた人々」とか、「決して金銭の取引きをしない」といった項目がある。そうしたアイディアを元に候補地探しをするEが、この中洲の「風俗画」を見て、「美しい町」の候補地はここだ! とLucky Ideaがひらめいたというのでは、筋としてあまりにも無理があると言うべきではないだろうか。

 尤も佐藤が目にしたのは「三囲之景図」だけだったのではないか、という考え方もできるかもしれない。しかしEと一緒に中洲を下見に行った川崎が、「まあ、橋の上へ行つて見ようよ。司馬江漢もきつとそこから写したものだらう」と言っていることから、佐藤が「中洲夕涼図」を見ていたことが判明する。なぜそういうことになるかは、図1と2を見比べて、「橋の上」からスケッチしたものがどちらか、を考えてもらえばわかるだろう。

 さて、これで佐藤がなぜ中洲の構図を嫌い、三囲の構図を取り入れたのかについては十分納得がいく。しかしこれでは、なぜユートピア設立の場所として三囲でなく中洲を選んだか、というもう一つの疑問に対しての答にはなっていない。

 ではここで中洲がどういう場所であったか、確認しておくことにしよう。

 中洲というのは「美しい町」の本文にも図があるとおり、隅田川と箱崎川の分岐点にあたる一角で、文字どおり隅田川の「中洲」にあたる場所である。現在は箱崎川が埋め立てられて高速道路になっており、「日本橋中洲」という「地名」に、わずかにその面影を残すものの、中洲の「地形」は全く残っていない。

 ここを「三叉」と呼ぶこともあったようであるが、三叉というのは、当然のことながら「三つに分かれる」ことであるから、中洲は断じて「三叉」ではないのである。どうしてこういう間違いが生じたかと言うと、中洲の西南西、日本橋川が隅田川に流れ込む寸前に、箱崎川と亀嶋川によって流れが三分されるところがあり、ここを「三叉」と呼んでいたのが、中洲と混同されたからであるようだ。

 三叉は明暦の頃より観月の名所として著名になる。しかし名物は何も月だけではなく、寛文年間に書かれた『江戸名所記』には、「北には浅草寺・深川新田・東ゑい山まのあたりにみゆ。西の方には江城・愛宕の山みゆ。たつみの方には伊豆の大島、ひつじさるのかたには駿河の富士山、ひがしの方には、はるかに安房・上総にうちつゞきてみゑたり」とあるから、ここが江戸有数の名勝となり、ついにはその川岸が盛り場になったというのもうなずけるのである。

 一方の中洲であるが、こちらは明和八年に埋め立てが実施されると、地形のおもしろさからやはり名所となり、三叉と同じく観月のために舟遊びの人々が訪れる場所となって、いつしかここも江戸有数の盛り場となる。ピークを迎えた安永・天明期には湯屋三軒・茶屋九十三軒を数え、「誠に江都草創より以来、かかる納涼の盛なる事、此に及ものなし(中洲雀)」と言われるまでになったという。

 三叉と中洲は、盛り場としての性格が似ていたため、貞享・元禄の頃になると、両者は混同されるようになった。図2、3に江漢が描いた二つの「中洲」を挙げたが、彼も地名を混同していたようで、「江戸橋より中洲を望む」では、中洲と言っておきながら、日本橋川下流の三叉の方を描いている。というのは、中洲を日本橋川に架かる江戸橋から見たというのでは、方角や距離からして、とても「中洲を望」める位置になく、せいぜい三叉を遠望することができるくらいだったからである。一方、天明四年作の「中洲夕涼図」の方は、その地形からいって中洲を指していた、としていいだろう。

 こうして「三叉」も「中洲」も、江漢の時代はともに繁盛していたのだが、「中洲」の方は、隠し売女の召捕り騒ぎをきっかけにして寂れ始め、寛政元年に埋立地の取払いが命じられ、ついに水没という運命をたどることとなる。

 中洲の「地」はそのまま川の中で維新を迎え、ようやく明治十九年になって再び埋め立てられる。明治二十六年になると、ここに真砂座が作られ、近隣には次第に割烹などもできてくる。永井荷風の「桑中喜語(大正十三年)」には、明治末年の私娼窟について書いた一節があるが、そこに「中洲真砂座といふ芝居の横手の路地にも銘酒屋楊弓場軒を並べ、家名小さく書きたる腰高障子の間より通がゝりの人を呼び込む光景、柳原の郡代、芝神明、浅草公園奥山等の盛況に劣らず」とあり、ここが市内有数の盛り場であったことが窺える。しかし大正六年に真砂座が客足の減少を理由に廃絶となると急速に寂れはじめ、しばらくは盛り場として存続したものの、関東大震災で決定的な打撃を受けると、ただ倉庫が林立するだけの町に変貌している。

 さて佐藤が中洲を「美しい町」として描いたのは大正八年であるから、「中洲」と言えば、人々の脳裡には盛り場の、それも衰退気味の盛り場のイメージが湧いたはずである。まして川崎たちの計画が開始されるのが、真砂座が廃止される以前の「明治の最後の年の二月初め」とされているのだから、本当ならもう少し華やいだ感じがまぎれていてもおかしくないのである。ところが作品の中には、およそそれを匂わせるような箇所が見当たらない。そこはただ「ごみごみしたとりとめもないうすら寒い気持ちの場所」、「汚らしい灰黒色の屋根のかたまり」と記されるだけであって、荷風の記述と比べると、ずいぶんと差がある。尤も私娼窟を抱えるような盛り場など、Eや佐藤にとっては、単に「ごみごみしている」「汚らしい」町にしか見えなかった、ということなのかもしれないが、とにかくここで確認しておきたいのは、盛り場としての中洲のイメージ、つまり酒と女と芝居の町としての中洲の現状は、作品世界には全く反映していない、ということである。

 では盛り場としての中洲を作品世界に紛れ込ませなかった結果、この町の特徴として何が残ったのかというと、「地形のおもしろさ」と「観月の名所」の二点である。つまり盛り場としての中洲のイメージを、江漢の「中洲夕涼図」を(表向きで)排除することと、当然描かねばならないはずの中洲の「風俗」を、徹底して作品から締め出すという二つの「虚構」を施すことで、佐藤はようやく「美しい町」の舞台にふさわしい「中洲」を紙上に作り上げた、と言うことができるのである。

 江戸の名所は「山の辺」と「水の辺」に集中していると言われるが、これは一つの景観がもう一つ別の景観に移り行く場所、つまり本論の用語で言い換えれば「かはたれ」的な場所である、と言うことができる。水と陸地の出会う場所、しかも町の周りを水に囲まれた中洲は、江戸時代人にとってはもちろん、佐藤春夫にとっても極めて「かはたれ」的な、魅力的な場所に映った、と考えることができそうである。「三囲」も確かに江戸を代表する名所で、ここが景観の美しさでも高名であったことは、ほかならぬ江漢が絵を残していることからもわかるのだが、何と言ってもここのメインは「三囲神社」という宗教的建造物であって、景観のみで勝負する中洲とは、カテゴリーからして異にしているわけである。

 そして「観月の名所」について言えば、佐藤が幼少の頃、熊野川で溺れかかった経験を綴った「日本の風景(昭和三十四年刊)」で、「三つのわたくしがそこ(川)へ這ひ込んで行つたといふのは、浅瀬の波に南国の日の光がきららかにうつつたのに魅惑されたのではなからうか。風景といふほどのまとまりのあるものではないが、わたくしは風景の一要素たる水光の魅力に誘はれたと云つてよからう」と書いていたことを思い出させる。尤もこれは「太陽と水」であって「観月」とは違うし、こういう話には後年の脚色がつきものなので、これを言葉どおりに信じるのは軽率かもしれない。

 しかし佐藤が「一度、月をしみじみ味はうた事のある人ならば、誰しも月の恋人になるのは当りまへの事である」といった言葉のある「月かげ(大正七年三月)」の作者であり、また「せつなき恋をするゆゑに/月かげさむく身にぞ沁む。/もののあはれを知るゆゑに/水のひかりぞなげかるる。」に始まる「水辺月夜の歌」を『殉情詩集(大正十年刊)』の冒頭に収録する詩人であったことを忘れてはなるまい。隅田川の川面に映る月かげや夕陽を眺める場所として、佐藤が中洲に着目したという可能性は、十分すぎるほどにあると思われる。

 「美しい町」の中でも、「中洲」を見たEが、初めは「ごみごみしたとりとめもないうすら寒い気持ちの場所」だと感じていたものの、その後になってあらためて「大橋の上から消えて行かうとする冬の入日のなかに」この町を見下ろすと、そこが「美しい町」にふさわしい場所であるように感じてくる、という件りがある。夕陽によって町のイメージが変わってくる、これは「観月の名所」であった中洲の大正風・佐藤風アレンジである、とは言えないだろうか。

 以上の点から考えて、「美しい町」の候補地としてなぜ「中洲」が選ばれたのか、しかし引用される絵柄はなぜ「三囲」なのか、説明できたと思う。

 今一度要約しておけば、佐藤は景観の美しい「かはたれ」的な「空間」として「中洲」を選び、さらに登場人物たちに、ここを「かはたれ」的な「時間」、すなわち「かはたれとき」に訪ねさせ、その象徴である夕陽を配合した、ということになる。

 

   Ⅱ 自然/人工 風流

 

 では次に川崎たちが(そしてその裏で彼等を操る佐藤が)、いったいこの中洲を(この物語を)、どのように作っていこうとしたのかについて見ていくことにしたい。その際にもこの「かはたれ」という視点は、重要であるように思う。

 中洲は「ごみごみしたとりとめもないうすら寒い気持ちの場所」であったと書かれている。しかし川崎たちの計画によれば、「それらの家々のなか側の空地には、各々の家々のうち側の窓が一様に又一目で見ることが出来る庭園を持たう」とあったり、「その家の美観をそへるであらうやうなさまざまの形の樹木を、私はその家の脇に、或は後ろの方に空想で描いて見た。私は多く落葉する樹を考へ、時には常盤木を考へた。それから家の壁にまつはるさまざまな蔓草を想像した」とある。では彼等のプランが、木々が鬱蒼と生い茂った、鳥獣虫魚の豊富な田舎を理想としていたのか、と言うとそうではない。「どこか東京の市中になくてはいけない」という条件があらかじめ規定されているからである。

 ではなぜ川崎は、ここで「東京市中」にこだわったのであろうか。それにはまず佐藤の東京観から確認しておく必要がある。震災直後に書かれたエッセイ「滅びたる東京(大正十二年)」で、きわめて即物的に「私はただ自分の仕事の――と言つても、そのごく外面的な部分からの必要上、東京をただ便利として住んでゐたまでである」として、「正直に言ふと私は焦土となつたこの都市をそれほど愛惜してゐるものではない」。あるいは「あの騒擾の最中にどんなに故国をなつかしく思つたらうか」とドライに言い放っており、失われた街への思い出なり、オマージュなりを書き付けそうな誘惑を見事に断ち切っている。しかし同じ文章の中で「よそで一ヶ月もするときつといつとはなく東京のことを思ひ出してゐる自分に気がついた――それが例へ自分の生れ故郷にゐる時でさへもこの事を思ひ出した」とも書いているのである。

 「田園の憂鬱(大正七年)」でも、はじめこそ「息苦しい都会の真中にあつて、柔かに優しいそれ故に平凡な自然の中へ、溶け込んで了ひたいという切願を、可なり久しい以前から持つやうになつてゐた」と書いていたのに、結末近くになると、汽車のひびき、電車の軋る音、活動写真の囃子…… といった幻聴や幻視が浮ぶようになり「俺は都会に対するノスタルジヤを起してゐるな」と自らを分析するようになっている。

 都会にいれば田園が恋しくなり、田園にいれば都会が恋しくなるというのは、なにも佐藤春夫の専売特許だというわけではないだろう。しかしどちらにもそれなりのいいところがあるなどと達観しないで、都会には田園を、田園には都会を無理やりにでも持ち込もうとするのが佐藤的、即ち「かはたれ」的なのである。これはよく言われる佐藤における「人工/自然」の問題にも連続している。
 

この丘をかくまでに絵画的に、装飾風に見せて居るのには、この自然のなかの些細な人工性が、期せずして、それの為めに最も著しい効果を与へられて居るのであつた。ちやうど林のなかに家の屋根が見えて居ると同じやうに。さうして、この場合どこからどこまでが自然その侭のもので、どこが人間の造つたものであるかは、もう区別出来ないことである。自然の上に働いた人間の労作が、自然のなかへ工合よく溶け入つてしまつて居る。何といふ美しさであらう! それは見て居て、優しく懐かしかつた。おれの住みたい芸術の世界はあんなところなのだが……
「田園の憂鬱」


 つまり佐藤が「住みたい」と思うような場所とは、実は田園でも都会でもないのである。田園生活も都会生活も、ともに「憂鬱」なものにしか感じられないという心性は、なにも佐藤が不満家であったことを示すわけではなく、そもそも彼が求めていたものが自然と人工の「あいだ」にあたる場所、つまり「かはたれ」であったからだと考えられるのである。

 これが「風流論」(大正十三年)に言うところの「風流」、即ち自然の悠久無限を前にして人間は自己の微少さに気づかされ、その時に人間の意志が脱落する瞬間の感覚。これこそが無常感であり、また風流なのだ、という自然観・人間観に繋がっていると言っていいだろう。

 佐藤は日本三景のうちでは宮島が一番美しい、と「日本の風景(昭和三十四年刊)」で言う。「最初から自然を主とし人工を従として、自然の地勢に即して建て物が設計されてゐるためであらうが、人工がとかく自然におつかぶさる場合が多いのに、この節度のある人工が好もしいのである」、また「自然のなかに適度な人工が加はつてこそ本当に人間の風景になる」とも言っている。

 この説を、隅田川に浮かぶ中洲にオーバーラップさせて考えてみよう。洋風の外観をした建築が建ち並び、よく整備された庭と街路樹が整然と配置されている…… 「風流」というと、なにか日本の伝統的な景観ばかりを思い浮かべがちだが、佐藤の言う「感覚としての風流」には、こうした「美しい町」のようなたたずまいのことも含めておくべきだろう。

 

   Ⅲ 西洋/東洋

 

 「美しい町」における「かはたれ」性として、もう一つ付け加えておきたいのが、西洋と東洋の「あいだ」についてである。このことについては、すでに川本三郎氏をはじめ(4)、長谷川堯氏にも指摘があるので(5)、私見を交えながら紹介するに留めたい。

 まず川崎がEを呼び出したのが築地のSホテルであったこと。築地とは言うまでもなく外国人居留地であり、日本の中の外国であった場所である。そしてこのSホテルとは、かつて鴎外の恋人エリスも滞在したという築地精養軒ホテルを指している(初出誌ではTホテルとなっているが、TsukijiでもSeiyokenでも、どちらでもあてはまる)。日本においてホテルとは、そもそも外国人の滞在用に建てられた西洋風の施設であり、ここもまた日本の中の外国であった。

 Eをホテルに呼び出した川崎禎蔵は、本名をテオドル・ブレンタノと言い、アメリカ人の父と日本人の母との「あいだ」に生れたハーフである。このブレンタノの友人で、この物語の語り手であるEは、外国語が苦手で、外国人の友人など一人もいないという<生粋の>日本人だが、油絵を専門にするという画学生、つまり「西洋」画家の卵である。また川崎に雇われる老建築技師は、鹿鳴館時代に巴里への留学経験を持ち、四十年前の流行かとも思われるモオニングを着てホテルに現れるという人物である。つまり三人が三人とも西洋と東洋の「あいだ」に生きる「かはたれ」的な人間なのである。

 そして、こんな三人によって計画された町は、「礎や地盤には石材を豊富に使つたものであつたが、家そのものは木造で倉造りになつてゐて、それの外形では殆んど一種純然たる西洋館であつたけれども、家の内部はそれ自身が充分に一つの特有な様式を成すほどの工夫から出来た日本館であつた」とされる和洋折衷形式である(ちなみに川本氏はこれを薄っぺらで安普請な「書き割りの家」とするが、「かはたれ」をよしとする佐藤が、これらにマイナスイメージを附与していたようには読み取れない)(6)

 またEが「中洲」のアイディアを得た司馬江漢とは、江戸期の日本で西洋風の遠近法を用いた銅版画を残し、また蘭学者としても活躍した人物である。そしてEがその銅版画に惹かれたのも、西洋風の遠近法で日本の風景を書いていたからであろうし、また絵そのものよりも「一種愛すべき稚気を持つたマンネリズムで風に翻つてゐる巻物のやうな形のなか」に書かれた「活版を真似た字体の羅馬字」に惹かれたとあるのも、Eの西洋趣味、というより「美しい町」というテクスト自体の「和洋折衷趣味」を窺えるように思うのである。

 また比較文学的な指摘をすれば、川崎がウィリアム・モリスの『何処にもない所からの便り』を愛読していたり、デカメロンや鴎外訳のファウストなども登場する。また直接の言及こそないが、この作品がエドガー・アラン・ポーの「アルンハイムの地所」(莫大な財産を手にした男が、自然と人工の調和した楽園を、都会からそう遠くない川沿いに築くという話)の影響下に書かれていることも、広く知られているところであろう。

 その他、「金ボタンや金モオルのユニフオムのガルソン」が現れたり、ホヰスラアの絵、シャンペンやらレター・ペーパアやらといった西洋風な小道具を挙げていけばきりがない。

 佐藤は「田園の憂鬱」の手法について、「うぬぼれかがみ(昭和三十六年十月)」の中で、
 

僕はわが国古来の隠遁者の文学を近代小説の手法で書きたいと思つた。幻聴や幻視が僕にポーの作風をもう少し平淡にしてみたらと思はせた。さうしてわが頭裡に刻みつけて置いた田園風景を油絵風に描いてみられないものかなどとも考へた。これが「田園の憂鬱」の青写真であつた。


と書くが、この日本の風景や叙情を西洋風な視点で書くというアイディアは、何も「田園の憂鬱」一作に終わったわけではない。佐藤の代表作には、こうしたアイディアに基づくものが多く、この「美しい町」はもちろん、例えば中国女流詩人の訳詩集である『車塵集』が好評であったことについて、佐藤は「中国の忘れられてゐる文学にヨオロッパ風の光をあてて見ると云ふ方法が思ひがけない効果をあげたらし」いと書いてもいる(「近代日本文学の展望」昭和二十四年十一月)。

 東洋に西洋を割り込ませること、あるいは西洋に東洋を割り込ませること。そしてその結果として現出する和洋折衷的空間(=かはたれ的空間)もまた、「おれ(佐藤)の住みたい芸術の世界」であったわけである。

 

   Ⅳ 「美しい町」はなぜ完成しないか?

 

 では最後に「美しい町」がなぜ完成しないのか、について考えてみることにしよう。

 まず作品内の時間について考えてみる。先にも述べたように、Eと川崎の出会いと別れは「かはたれとき」に設定されていた。そもそも川崎という人物は、「夜眠れない習慣のあることや、それ故この頃では昼間寝て夕方に起きる」生活を続けており、三人の仕事時間もこれにあわせて「七時半から十一時半までと定め」られていた。つまり彼は昼に夜を持ち込み、夜に昼を持ち込んで「かはたれ」を自己演出して生きているわけである。

 高橋世織氏は、明治から大正初期にかけての「電燈照明」の発達によって、文学青年たちの間に「夜型の生活」がはじまり(7)、延いては「現実から逸脱した、理性では把捉し切れない、識閾下の世界に光を投射し、現実や自己のある本質部を可視のものとして投影する営み」が為されるようになったと言うが(8)、たしかにそういう指摘はできるかもしれない。

 Eも老建築技師も、川崎の仕事時間に影響されて、だんだんと夜型の人間になっていく。例えばEは、作品中で中洲を二度訪れるが、一度目は「大橋の上から消えて行かうとする冬の入日のなか」に、二度目は川崎の去った後、「たゞ夜の町を歩きまはつた」結果、「私の足はいつの間にか、私を新大橋の方へ導いて行つて居るのであつた」ということになる。ここでEは欄干に凭りかかっている老建築技師を見るが、この時、Eも老人も、すっかり「川崎的時間」に生きる人物、つまり高橋氏の言葉を借りれば「現実から逸脱した、理性では把捉し切れない、識閾下の世界に光を投射し、現実や自己のある本質部を可視のものとして投影する」人物になっているということができるだろう。

 その一方で川崎は「夜の七時の列車で出発する」と二人に言っておきながら、実際は「午後四時ごろに出発」してしまい、「夜の人」となったEと老建築技師を残して、一人でホテルを後にする。つまり川崎は、彼らを「夜の人」にしたまま、自分だけは「昼の人」になりすまし、一人で現実世界のどこかに消えていってしまうわけである。

 河村政敏氏は、実現などできるはずもない夢を見続けた川崎は、その夢の大きさに見合った大きな憂鬱を抱え込んでいた、として「美しい町」を論じているが(9)、川崎の「憂鬱」を、いわゆる「憂鬱」であると考えてはいけないだろう。なぜなら川崎は、自分は金など持っていない大ヤマ師であった、という告白をするにはするのだが、精神的ダメージを受けるのはむしろその告白を聞いた相手の方であって、当の本人は全くダメージなど受けていないように見えるからである。読者としては、せっかく作った紙細工の町がカバンの下敷きになって潰れているのを、川崎が惜しいとも何とも思っていないこと、また、川崎がEや老人と別れを惜しむこともせず、慌ただしくホテルを立ち去っているあたりを、なんとも納得のいかない気持ちで読むのだが、このスイッチを切り替えるかのような川崎の身代わりの早さこそ、佐藤流というべきなのかもしれない。というのも、これは川崎が、佐藤の「風流論(大正十三年)」に言うところの、「ふと世情が淡くなつて己に執する心が去つたかのやうに見えたその瞬間に」訪れる「或る名状しがたい情調」、即ち「風流」に襲われているからだ、と考えられるからである。ここで「美しい町」を作る「夢」を執拗に追いかけてしまっては、「求道」となり、もはや佐藤の言う「感覚としての風流」ではなくなってしまうわけである。

 川崎は彼なりに努力を続けた結果、この「無常感」に襲われるが、一旦自分の負けを認めてしまえば、今度はいともあっさりと計画を切り上げてしまう。例えば松尾芭蕉は、無常感の頂点で俳句を残したのだ、と佐藤は言うが、同じように佐藤は川崎にも“Nisi Dominus Frustra(主によって建てらるゝに非ずば徒労のみ)”なる本を書くと言わせており、どうやら彼は、この二人が同種の「風流の徒」であったことを示そうとしていたように思えるのである。

 さて、ここで問うてみたいのは、川崎が果たして本当に「美しい町」の建設を考えていたのか、ということである。彼は「美しい町」のプランをEに話す段階でこう言う。

 人々はその私の建てた家々をながめて、あんなところに住めたならばさぞよからうと思ひ、さうしてそれは住みたい人には誰でも住めると聞いて人々はびっくりし、併し、その家に住むことの出来る条件といふものを聞いて訝しく思ひ、さうしてその変人は巨額の尊い金を徒費して何のためにそんな町を建てたのだらう? 私は人々の心にさういふ疑問を起させたい。さうして私は不思議な男として人々に覚えられよう。わけても私は少年や少女たち、形は小さいけれども何等の成心もなしに物事をよく考へ、よく感ずるころの出来る尊い人間たちが、その町を見たならばそれの美しさのために、たつた一目見ただけで、恰も傑作のメルヘンのやうにそれが彼等の柔かな心のなかへ深く沁み入つて、終生忘れることの出来ない印象を与へ得るやうな町でありたい

 現実問題のために、即ちグロテスケンに毒されないで町を作ってみたい、という希望はまだよいとしよう。ただこれを読む限り、川崎は人々の印象だけを考えていて、実際に人間が住む空間としての町を作ることなど、はなから考えていなかったように思えるのである。川崎にとっての「美しい町」とは、「田園の憂鬱」における「何時、建てるものとも的のない家の図面の、然も実用的といふやうな分子などは一つも無いものを何枚も何十枚も、それは細かく描いて居る」という件りと同じで、「実現」というような俗な意識とはまるで無縁の「夢」を追いかけているように見える。これは町の設計図でもないし、家の設計図でもない。彼が言うとおり、これは「詩の領域」に属すものである。

 詩人とは、まず自分が愛するに足る詩を作ること、そしてそれが人々に愛唱されることを望むものであって、まさか「本」というモノを作ることを目標とする存在ではないだろう。同じように、夢見る建築家は、現実の町、モノとしての町を作る人間ではなく、自分を含めた多くの人々の心に「終生忘れることのできない印象を与へ」ることを何よりも重視する存在だ、と言おうとしていたのではないだろうか。

 川崎の「美しい町」は、少なくともEと老建築技師の心の中には、しっかりとその印象を焼き付け、川崎が去ってからも、彼等は夜の世界で生き続け、二人は思わず中洲に行ってしまうし、さらにEは老建築技師の孫娘と結婚し、その設計による家に住むという後日談までついている。佐藤と同じように「生来の詩人」であった川崎が、この上、なにを求めたというのだろう。彼が再び「美しい町」の計画などを持ち出さなかったのはもちろん、芭蕉ばりの風流な「本」を書いたとも思えない。Eと老建築技師という最良の「読者」が存在してくれているのに、どうして今更それをモノ化する必要があっただろう。

 確かに川崎は「実在するものよりも幻の方が美しいとは、昨日までの、私のやうな馬鹿の言ふことである。幻は美しい、さうして実在するものはもつと美しい」と二人の前で演説してはいる。しかし、もしも本当にそう思っていたならば、紙細工などを作っている暇に、西村伊作なり武者小路実篤なりの大パトロンを見つけるべきだったのである。大正という時代は、「文化学院」や「新しき村」という「美しい町」が実際にできてしまった時代なのである。川崎の「夢」が、必ずしも「夢」に終わったとは限らない時代だったのである。川崎の失敗をもしも「失敗」と呼ぶとすれば、それは夢と現実の「あいだ」に生きることを重視しすぎて、モノによる現実的な決着を考えていなかったことに原因があったわけであり、父親の遺産云々などというのは、ただの付け足しでしかなかっように思えるのである。

 

 本論では夜と昼の「あいだ」、陸と水の「あいだ」、自然と人工の「あいだ」、西洋と東洋の「あいだ」、理想と現実の「あいだ」…… と、対立する五つの概念について見てきた。その結果、佐藤の「かはたれ」志向は確認できたと思うが、この「かはたれ」とは、佐藤の文名を高めた「風流論」とも、極めて近い関係にあったわけである(10)

 蓮実重彦氏は大正時代の言説を「分離よりも融合を、差異よりも同一をおのれにふさわしい環境として選びとり、曖昧な領域に「主体」を漂わせたまま「問題」と戯れ続けている」と分析するが(11)、蓮実氏の分析を容れるとすると、様々な二項対立を提示しておきながら、その差異を意識的に混同することで作品に決着をつけてしまう作品群を残した佐藤春夫は、実に大正的人物であったということになりそうである。佐藤春夫を大正時代の代表的な作家であるとする人は多いが(12)、「大正らしさ」とは、すなわちこのかはたれ性の謂いであった、と言うことができるかもしれない。

 

 

〔註〕

1 本論は「かはたれ」で、佐藤の心性を読み解こうとしているが、佐藤本人は「たそがれの人間」という、稲垣足穂と思われる人物からの書簡をそのまま転載したエッセイ(講談社版全集では小説に収録されている)を残している。この少年作家T・Iは「僕自身の全生活を二十歳に縮刷して見てゐるやうな気がする」とされているが、その書簡中に「僕のやうな者は所謂たそがれの人間とでも云ふので、いずれは自滅すべき種属であるのは、勿論自分でよくわかつてゐることなのですが」という件りがある。

2 平野謙「佐藤春夫(昭和三十八年十二月)」(『平野謙全集七』・新潮社)

3 中村三代司「創作と批評の間 佐藤春夫『美しい町』の場合」(『近代文学論集四』・昭和五十六年六月・教育出版)

4 川本三郎『大正幻影』(平成二年・新潮社)

5 長谷川尭『日本ホテル館物語』(平成六年・プレジデント社)

6 加藤百合『大正の夢の設計家 西村伊作と文化学院』(平成二年・朝日選書)には、佐藤における西村伊作の影響が論じられており、教えられるところが多いが、佐藤が単にミニ西村であったのかと言うとそうではない。例えば西村の「私は今でも日本風に座つておじぎをしたり、または、寝ころんで読書すると云ふことにはあまり興味を有ち得ません、だから、私の考へる住居の形式は、いつも西洋風のものであります(楽しき住家・大正八年)」という言葉は、佐藤とだいぶ距離があると思われる。加藤氏は「美しい町」についても論じており、「礎や地盤には石材を豊富に使つたものであつたが、家そのものは木造で倉造りになつてゐて、それの外形では殆んど一種純然たる西洋館であつた」という一節を引用して、この後を「後略」としてしまっているが、この後に続く部分、すなわち「けれども、家の内部はそれ自身が充分に一つの特有な様式を成すほどの工夫から出来た日本館であつた」という所にこそ、佐藤と西村の個性の違いが露呈していると思われるのである。

7 高橋世織「『田園の憂鬱』論」(『日本近代文学』・昭和五十七年十月)

8 高橋世織「佐藤春夫『美しい町』について 「倒景」としての東京」(『媒』・昭和五十九年十月)

9 河村政敏「『美しい町』試論 憂欝の精神構造をめぐって」(『日本近代文学』・昭和四十年十一月)

10 佐藤の生まれ育った和歌山県新宮市は、山・海・川の「あいだ」に位置するきわめて「かはたれ」的な町、佐藤の言葉を借りれば「クライマックスの多い戯曲的な風景(田園の憂鬱)」の町である。新宮は当時、鉄道はおろか道路も達していないという辺境であったが、大阪や東京に出るのならアメリカも同じだ、とばかりにアメリカに渡航する人が多く、したがってアメリカに親類を持っている人が多く、石田アヤ氏(西村伊作の長女)によれば、「三輪崎から新宮に魚を売りに来る女たちが、明るい黄色のピカピカ光る防水のアメリカ製と一眼でわかる程に、日本のものとはかけ離れているレインコートを着て」いたという。また中学時代の佐藤の友人たちも、皆あたりまえのようにアメリカ製の文房具を持っていたとのことである(「大石七分と玉置徐歩 海外に向った熊野びとの中の」・『熊野誌』・昭和五十六年十一月)。

さらに付け加えれば、この小さな町からは、大逆事件で処刑される大石誠之助、文化学院の創設者・西村伊作、そして宗教家で作家の沖野岩三郎といった全国レベルの有名人を輩出しており、佐藤と直接に関わりのあったこの三人は、いずれも皆、西洋文化の積極的な移入者として日本史に名を残した人物である。また大石を初めとするいわゆる「新宮グループ」は、大逆事件で日本を大きく動揺させたし、西村の財力、そしてそれを背景とした文化学院の創設も近代日本に大きな影響を与えた。思えばこうした寒暖差の烈しい町に生まれ育った佐藤は、いつしかこの寒暖差そのものを「常体」と思う感性が、自然と身についてしまっていたのかもしれない。

11 蓮実重彦「「大正的」言説と批評」 『日本の批評 明治・大正篇』(平成四年・福武書店)。しかし同著では佐藤を大正的言説にとらわれないわずかな例外ではないか、とも言っている。果たして佐藤は大正的なのか、それとも非大正的なのか? おそらくはどちらも「真」であろう。すなわち、ここでもまた「かはたれ」を以って解答とするしかない。というのは、佐藤は生涯「かはたれ」にこだわる風流の人であったが、彼の望んだのは決して「無風状態」ではなかったからである。彼は固定した芸術観、文学観、自然観、西洋観…… に、常に対抗しながら仕事をしてきたのであって、晩年の中村光夫との論争を思い浮かべてもわかるように、対立を避けるために中立を守り抜くような人間では決してなかった。「かはたれ」とは、佐藤にとってあくまでも「過激な結論」であった、ということを忘れてはならないだろう。

12 谷崎潤一郎は「世間では、よく二人を比較して芥川を上位に置くが、私は必ずしもそうとは思わない(「佐藤春夫と芥川竜之介」・『毎日新聞』・昭和三十九年五月十三日)」と書き、また平野謙は「それまで芥川龍之介や谷崎潤一郎を愛読していた私は、大正十一、二年ころから佐藤春夫にのぼせあがるやうになったらしい(前掲書)」と青年時代の読書体験を書いている。また近年になって中島国彦氏も佐藤春夫を最も大正的な作家であったとしている(『近代文学にみる感受性』・平成六年・筑摩書房)。
 

〔補註〕
図版の使用に関しては神戸市立博物館の許可を受けています。尚、図版は実際に覗き眼鏡で見た時のように左右を反転させてあります。

『司馬江漢百科事展 解説図録』(平成9年 神戸市立博物館・町田市立国際版画美術館)