風景と抒情 堀口大学訳「ミラボー橋」を考える

信時 哲郎

 「ミラボー橋」 はアポリネールの傑作であるとともに堀口大学の傑作であり、堀口の訳詩集のうちこの作品が掲載されたものは十数冊にものぼる。さらにおどろくべきことに、彼の訳詩は掲載のたびにすこしづつ改稿されているのである。この論考では改稿の過程をとくに詳しく見ていくつもりはない。彼の改稿は必ずしも<完成>に一直線に向かうベクトルであるとは言いがたいからである。例えば「楽しみ」という語ひとつとってみたところでも、大正14年には「樂み」、昭和3年には「樂しみ」、昭和7年には「樂み」、さらに、昭和44年には「楽しみ」という具合に、ベクトルというより揺れというべき変遷をたどつているのである。このように「ミラボー橋」の改稿の過程は可逆的なものであったが、なかには決定的な改稿というべき点もいくつかある。旧漢字・旧仮名から新漢字・新仮名への移行、文字を上げ下げすることによって原詩のもっている視覚的効果も訳詩に反映させようとしたことなどである。

 ではこれから改稿に改稿を重ねながら成立した訳詩と原詩とを比較対照して、堀口大学の作品の特質について考えてみることにする。

アポリネールの原詩を見て最初に気付くのは詩の<形>の特異さであろう。それは韻がどうのこうのということではなくて、純粋に詩の<形>である。


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この形が四回じつにきれいに繰り返される。アポリネールは句読点を廃し、カリグラムの詩を作ったということで革命的な詩人だともいわれているが、「ミラボー橋」という作品に限っては、成立年代の違いであろうが、句読点について論じられることはあっても詩の<形>が何を意味するのかを論じている例をいまのところ目にしたことがない。しかし第一行目が橋を表わし、第二~四行目までは川の水を表わしていると考えることは不可能だろうか、あるいはルフランが橋と川を見つめる詩人の位置を表わしているとは言えないだろうか。

 パリの街を散歩かなにかしていたアポリネールの眼にはいったミラボー橋とセーヌ河は、ただ映っては消えてゆく類の一過性の景色ではなかった。それはアポリネールの心中の奥深いところにまで暴力的に割り込んで、彼に詩を作らせてしまつたほどの重大な事件だったのだ。

「ミラボー橋」「セーヌ河」は、このとき詩人にとつて決定的な<風景>になっていたのである。アポリネールが<風景>との遭遇という事件を詩にするとき、ただそれを言葉にして表わすだけではなく、<形>としても表わす手法がとられたのである。大学が原詩の視覚的効果を翻訳しようとした意図自体は評価されるにしても、原詩の<形>には必ずしも忠実だったとは言えない。つまり詩人と<風景>との半ば対立的な関係までは翻訳できなかったのである。原詩の<形>まで忠実に翻訳し、しかも横書きでやりとげたのは、(フランス語の原詩と同時に掲載するという本の特殊な性格によるのかもしれないが)筆者の知るところでは窪田般彌氏の訳のみである。

  ミラボー橋の下をセーヌが流れる
    二人の恋も
   僕は思い出さねばならないのか
  喜びはつねに苦しみのあとにきた

    夜よ来い 鐘も鳴れ
    日々はすぎ 僕は残る

 大学の訳はアポリネールに挑みかかる<風景>というモチーフについては比較的に無関心であったと言えそうである。では<風景>との対立というモチーフを失ったそのかわりに何を表現したのだろうか? 詩人の生の息づかい、すなわち抒情性というものが浮きでているのである。具体的に原詩と訳詩を比較してこの点について見ていくことにしたい。

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 第一連では原詩の三~四行目

    Faut-il qu'il m'en souvienne
   Le joie venait toujours apres la peine

のところにアポリネール的風景観の疎外を見出すことができる。大学訳では、

      わたしは思い出す
   悩みのあとには楽しみが来ると

となっていて、三行目には原詩の「~せねばならない」という意味がでてこない。直訳すれば「わたしはそれを思い出さねはならないのか」となるから、ミラボー橋とセーヌ河という<風景>が詩人に「われらの恋」を思い出させているということになる。また四行目は、三行目で明らかになった<風景>の暴力を体験してはじめて得られた実感として得られる言葉であるはずなのに、大学訳では<風景>にも詩人にも直接何のかかわりもない、ただ「ことわざ」を引用したたけのような言葉になっている。

 ルフランで問題になるのは、

   日も暮れよ 鐘も鳴れ
   月日は流れ わたしは残る

という時の一文字分の空白である。この空白は<なにもない空間>であるとともに、<なにもない時間>である。文字にして表わされる時には前者を意味し、音読される時には後者を意味する。原詩ではこの部分が

   Vienne la nuit sonne l'heure
   Les jours s'en vont je demeure

であるからこれは大学の創造したものであった。この空白はただ単に「弁慶が なぎなたをふりまわす」が「弁慶がな ぎなたをふりまわす」に解釈されるのをおそれたという程度の問題ではない。実際、昭和7年の「仏蘭西詩の読み方」では

   日も暮れよ鐘も鳴れ
   月日は流れわたしは残る

となっているから、ただ単純な区切りの問箆とすべきではない。この自棄糞じみたのろいの言葉と決意とは、それぞれが切り放されて独立することによつてはじめて詩人の心から搾り出された声としてのリアリティーと切実さを生むのである。

 第二連では一行目の

   Les mains dans les mains restons face a face

という部分が、

   手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう

となっている。昔の恋人であるマリー・ローランサンとの日々を思い出す(思い出させられる)詩人の内面はかならずしも楽しいだけの思い出ではなかったろう。そうした苦いこころもちのなかで切れ切れにパロールとなり、ラングとなり、声にまでなってしまつた言葉であるから一言一言が重大で、一気に読まれることを空白をはさむことによつて避けているのである。

 第三連では一行目の

   L'amoure s'en va comme cette eau courant

が、

   流れる水のやうに恋もまた死んでゆく

になっている。昭和45年の「堀口大学全詩集」では「流れる水のように」で一旦空白をおいて「恋もまた死んでゆく」に繋がっている。しかしこの部分にかぎつては、空白をはさむと「恋」と「流れる水」が離れて存在することになってしまうようで好ましくない。他の訳を見ると、

   恋はすぎる この流れる水のように     (窪田般彌訳)
   恋は過ぎ去るこの流れる水のように     (飯島耕一訳)

というようにフランス語の語順にしたがって、日本語でいえば語順を倒置して訳しているものが殆どである。これは詩人の眼前に<風景>が唐突にあらわれたという驚きを語っている部分であり、大学訳のように「流れるように~する」という日本語の慣用表現をつかっては、またしても詩人に挑みかかる<風景>というモチーフが見落とされてしまうことになる。

 第四連では

   Passent les jours et passent les semaines
      Ni temps passe
     Ni les amours reviennent
    Sous le pont Mirabeau coule la Seine

の後にルフランがきている。大学訳は

   日が去り 月がゆき
      過ぎた時も
    昔の恋も 二度とまた帰ってこない
  ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

である。一行目と三行目の空白についてはいままでに述べたこととほとんど同じになるのでここでは繰り返さない。問題はむしろ四行目である。ところで第一連の一行目をもういちど思い出してもらいたい。それはフランス語では全く同じ文になっているのだが

  ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

つまりこちらの方では連用形が、第四連では終止形が使われているのである。第一連は二行目に繋がっていくのだから連用形が、そして第四連の方はそのつぎに行がなく繁がりがないということから終止形がつかわれたのだというのは文法的にわかりやすい。しかしただ文法上の規則を守っただけのようなこの何気ない差異は、また別の効果をもたらすことになった。つまり終止形でとどめることによって、ここで詩が終わったというような錯覚を読者にあたえているのである。さらにその次にくる一行分の空白という視覚的な効果から空間的・時間的空白のみならず意味的にも空白となっているのだ。<ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ>という<風景>からふたたびおしよせてきそうな愛の追想や悔恨は終止形によって、一行の空白によって断ち切られ、さらに思い出にひたりたい気持ちを自らさかなでするようなルフランによって断絶感は追い討ちをかけられるのである。

アポリネールが

   Sous le pont Mirabeau coule la Seine

という句を作品のおわりにもう一度もってきたのは、ただ作品の円環的構造を示したというだけのことにとどまらない。彼は同じ句ながらいかに別種のニュアンスがこめられているかを示したかったに違いない。つまり詩人を挑発する<風景>が、詩人に破棄される<風景>に変質しているということである。しかしアポリネールが、むりに<風景>を破棄するということの重大さに大学がどこまで敏感であったかは疑問である。継続する<風景>と終了した<風景>を明解に二分してしまった大学の卓見は、意識しないということによってはじめて思いきって下すことができたものだと解されるからである。

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 以上見てきて明らかになったように大学にとって<風景>はただ自分のまわりにあるものというくらいにしか認識されていないのである。<風景>とはそもそも自分であり、自分は<風景>なのだという東洋的な自然観のもとでは、<風景>との遭遇というドラマはあまりにあたりまえすぎてそれだけでは詩になりにくいのである。

  花の色はうつりにけりないたづらに我身世にふるながめせしまに

ここでいう花は、はたしてこの歌がよまれた時に小町の眼前にあったのかというときわめて疑わしい。実際には花なんてあってもなくてもたいした問題ではなかったのであろう。彼女は直観的に自分を花にたとえているだけである。すくなくともアポリネールのように風景との遭遇そのものに作品の動機はない。小町は時間の経過を花にたくして自らの嘆きを表出しているだけなのだ。同じように大学の訳も時間の経過を水のながれにたくしているだけで、詩人に挑みかかる<風景>には注意がはらわれていない。

  夕月夜のをかしきほどに、出だし立てきせたまひて、やがてながめおはします。

桐壷帝の眺めていたものは何か。確かに帝は夕月に視線をそそいでいたにちがいない。しかし平安朝における「ながむ」という動詞の意味するところは、「見るともなしにぼんやりと見やりながら、もの思いにふけること。」(小学館 日本古典文学全集)であるという。regarder(見る)という意味がないわけではないが、見るともなしに見る、つまりうわのそらに眼を見開いたままもの思いにふけることなのである。平安人の「ながむ」では<風景>がじんじんと身にせまつてくるアポリネール的体験はおこりそうにない。これが近代の堀口大学の眼になると一千年分の変質はあるかもしれないにしても、見るという行為がregarderよりむしろpenser(考える)ないしse souvenir(思い出す)の方に傾きがちに解されていることは今回の考察で明らかになった。今ここで日本の抒情詩について明確に定義できる準備はとうていできてはいないのであるが、叙景あるいは叙事についてよりも抒情に大きく傾いた日本の詩の性格はこうしたやりかたによつても指摘できるのではないかと思う。

 使用テクスト
   堀口大学全集 (小沢書店) ほか

 引用文献

   ふらんす双書 ミラボー橋の下をセーヌが流れ フランス詩への招待 窪田般彌(白水社 昭和五十年)
   アポリネール全集 (青土社 昭和五十四年)
   日本古典文学全集 源氏物語 一 (小学館 昭和四十五年)

原文では、大学のテクストは縦書き。またアポリネールの原詩はフランス語だが、アクサンを施していない。