乱歩の浅草/浅草の乱歩 ──「押絵と旅する男」論──

信時 哲郎

 

 「押絵と旅する男」は、乱歩が昭和二年に『一寸法師』の連載終了後、自己嫌悪にかられて休筆を宣言し、日本各地を放浪している時、「魚津へ蜃気楼を見に行ったのがもとになって心に浮かんで来たもの(探偵小説四十年)」であることはよく知られている。そのせいか語り手である「私」も、乱歩とほぼ等身大の人物だと思われがちである。もちろん「私」は、ある意味で乱歩その人であるとも言えるのだが、全くの等身大であると考えてしまうと、この作品の持った同時代的な意味合いを見落とすおそれがある。というのはこの二人の間には、世代の違いという深い溝があったと思われるからである。

 そもそもこの物語は、語り手でさえ「私の夢か私の一時的狂気の幻」ではないかと疑うくらいの曖昧な時空間を設定されている幻想譚であり、ここに世代などといった言葉を持ち出すのは不似合いに思えるかもしれない。しかし列車の中で私が出会った老人が、兄を浅草寺の境内で見失ったのが明治二十八年四月二十七日だったとはっきり記されていることから、登場人物の年齢や、私と老人が出会った「今」が一体いつなのかもほとんどわかるのである。

 一番はっきりしているのが兄の年齢である。事件の起こった時のことを、老人が「あれが二十五歳の時の、お話でございますよ」と言っていることから、明治四年生まれ(数え年)であることがわかる。一方老人自身は「私はその時まだはたちにもなっていませんでしたので」とあることから、明治十年前後の生まれであることになる。

車中の時間は「三十五、六年も(初出では「三十年以上も」)昔のことですけれど」、「あれからもう三十年の余になりますので」などとあるから、昭和五年頃ということになるが、この作品が掲載されたのが『新青年』の昭和四年六月号であることから、昭和四年ということにしておいてよいだろう。従って「四十歳にも六十歳にも見える」という老人の年齢も、実は五十そこそこであったことがわかる。

 次に「私」であるが、これははっきりしない。昭和四年頃に青年をターゲットにした雑誌に掲載したことから、読者が感情移入しやすい二十代であると思われるのだが、これだけではあまりにもたよりない。ただこの人物の世代を表す決定的な場面がある。それは老人が「私」に向かって「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね」と語りかけているところである。

明治二十三年建造、大正十二年の関東大震災で倒壊した浅草の十二階の存在を、「私」が知らないわけはない。ただ登らなかったのである。それは浅草という街が、昭和初年のモダンボーイにとって、もはや色あせた街にしか見えなかったからである。ここに老人や乱歩たち全盛時代の浅草を知る世代と、モダンボーイとの世代差が露呈されるのである。

 

 明治二十七年生まれ(つまり老人が兄を見失う半年前)の乱歩が名古屋から上京したのは大正元年。大正五年に早稲田大学を卒業した後は、職を転々としながら東京と大阪を行き来している。大正十二年四月に「二銭銅貨」でデビュー。作家として一本立ちする決意をして上京するのが大正十四年のことであるから、大学入学から作家生活に入るまでの乱歩の青春時代(?)は大正という時代とほぼ一致していることがわかる。

 日露戦争以降、日本の産業構造の変化等の理由により、日本の大都市、殊に東京への人口集中が激化し、大正半ばにはついに東京以外からの流入者の数が、東京で生まれ育った者の数を上回ることになった。加えて高学歴者の就職難という社会問題も影響して、東京には特に定職というものも持たずに街を遊歩する人々が生まれることになった(1)。W・ベンヤミンによれば都市の群衆の中のこうした存在が、探偵小説を産むための社会的条件だということになるが(2)、大学に熱心に通ったわけでも、仕事にうちこんだわけでもない乱歩はまさに都市の遊歩者であったと言ってよい。また退屈紛れに屋根裏の散歩を始め、ちょっとした思い付きから殺人を犯す「屋根裏の散歩者(大正十四年八月)」の郷田三郎も都市の遊歩者であったし、郷田の犯行をつきとめながら「僕は決して君のことを警察へ訴えなぞしないよ。ただね、僕の判断が当たっているかどうか、それが確かめたかったのだ」と自分の趣味に徹する明智小五郎も都市の遊歩者であった。このように乱歩による日本探偵小説の誕生は、当時の社会構造と密接な関りがあったとされている(3)。

 ここでもう一つ指摘しておきたいのは、乱歩と浅草との関わりである。乱歩が東京で遊民的生活を送っていた大正時代、浅草は帝都最大の盛り場として大変賑わっていたということである。

 浅草は浅草寺を中心として栄えた江戸以来の門前町で、参拝する善男善女をあてこんだ多くの飲食店や見世物が立ち並ぶ盛り場であった。その周囲には吉原遊郭をはじめとした江戸中の人々の関心を引き寄せるスポットもあって、明治維新を経た後もその賑わいに変化はなかった。老人は当時の浅草にあったものとして、蜘蛛男をはじめ、玉乗り、のぞきからくり、メーズ等の見世物を挙げるが、それらは実際には明治以降に発明もしくは改良されたものではあっても(4)、いずれも江戸時代以来の古風な見世物としての興行形態を保つものである。その後凌雲閣(十二階の正式名称)、パノラマ館、映画の常設館など、浅草は持ち前の貪欲さで西洋文化をとりいれているが、その興行の形態には何らかわりがなく、浅草に集う人々がこの街に求めていたもの=気分は(もちろん浅草寺への信心も含めて)、江戸時代とほとんど同じままであったと言ってよい。つまり乱歩と老人の間にも約十五年の年齢の開きはあるが、同じ浅草という街に求めたもの、得られたものに変化はなく、その意味で彼らは同時代人だったと言ってよいのである。

 このように江戸に始まり明治・大正と全盛を誇った浅草だが、大正十二年の震災からは下降の一途をたどることになる。浅草が位置している東京東部、いわゆる下町は、家屋が密集し地盤もゆるかったこともあって震災の影響が大きく、江戸的な情緒を持った下町の街並みは消滅し、浅草・人形町・日本橋といった盛り場からも人々は消えてしまった(5)。かわって人波は山の手に集中することとなり、帝都最大の盛り場であった浅草も、その地位を銀座に明け渡すことになる(但し山の手の人々を集めた銀座は地理的に言えば下町に属する)。

 もちろん浅草は浅草なりの復興を遂げ、「押絵と旅する男」の発表直後である昭和四年十二月、川端康成は朝日新聞に『浅草紅団』の連載を開始してその魅力をたっぷり描き、それからちょっとした浅草ブームがまきおこったほどである。しかし浅草の復興はとても銀座の新興にかなうものではなかった。同じ昭和四年十一月の『新版大東京案内』には、銀座を初めとする新興の街と違って、街頭を歩くモボ・モガの姿も少なく、代わりに「ハンチングの学生、前垂れの小僧さん、店員、職人、下町商人の娘さん」が目立つことが指摘され、「人は、浅草の群衆は低級だといふ。保守的で時代遅れだといふ」という世間一般の浅草評を紹介している(6)。又、同じ昭和四年九月に安藤更生は東京市内の盛り場の通行人を調査しているが、銀座について「青年は新奇を好む。ことにブルジョア的倦怠を覚えている青年は、都会的新奇を求めて止まない。世界の大きな都会と交流するもの、そこの新しい消息を青年の心に感じさせるもの、そのあるものが銀座にはある。それが現代の青年を吸引して止まないのである」とまとめる一方で、浅草については「あまりに大衆的で、かつやや頽廃的で、新興ブルジョアや若きインテリゲンチャには神経的に好まれていないのであろう」と分析をくわえている(7)。つまり浅草という街の崩壊をきっかけにして、浅草的な街のあり方が問い直されることになったのである。震災後の人々が街に求めたものは、銀座のような西洋化された街並みなり商品なり通行人なりであって、彼らは映画や雑誌で見る西洋風のモダン・ライフをそのまま街頭で実行するようになっていたのである。従って語り手の「私」が昭和四年の浅草に興味を持てず、そのかわり銀座あたりのもっとモダンな盛り場に心をひかれたとしても無理もないことなのである。

 大正十五年九月、乱歩は「浅草趣味」というエッセイを『新青年』に寄せている。そこでは「僕に取って、東京の魅力は銀座よりも浅草にある。浅草ゆえの東京住まいといってもいいかもしれない」として、震災によって盛り場の中心が浅草から銀座に移ったことを十分意識しながら、彼独特の「いかもの食い」の魅力を、安来節に代表させながら述べている。「浮き世のことに飽き果てた僕達にとっては、刺激剤として探偵小説を摂ると同じ意味で、探偵小説以上の刺激物として、それらのいかものを求めるので、探偵小説も、例えば安来節も、少なくも僕にとっては、同じような刺激剤の一種に過ぎないのだ」と。ちなみに「屋根裏の散歩者」にも郷田の述懐として「おもちゃの箱をぶちまけて、その上からいろいろのあくどい絵の具をたらしかけたような浅草の遊園地は、犯罪嗜好者にとっては、こよなき舞台でした」とあり、浅草の魅力と犯罪の魅力が同じに扱われている。このように乱歩の浅草観と探偵小説観は連続しているわけであるから、日本における探偵小説の起源が大正時代であったことは、ベンヤミン風の言い方とは別に、それが全盛時代の浅草を表現するのに一番適した形式だったからだということもできるかもしれない(8)。

 さて乱歩は「二銭銅貨」でデビューして以来、『新青年』誌を中心に探偵小説の普及に努めてきた。『新青年』の方も探偵小説を看板に売れ行きを伸ばし、日本の探偵小説作家も新旧あわせて実力をつけてきた。しかし大正末年になると、できたばかりの探偵小説文壇は、早くも「行き詰まり」が囁かれるようになり、乱歩のアイディアも底が尽きた感じで、例えば先に挙げた「浅草趣味」も大正十五年九月に探偵小説が書けない代わりとして書かれたものである。『新青年』の方も、かつてのように探偵小説を一誌で独占することはできなくなっており、雑誌存亡のためには新しい柱が必要になっていた。そんな昭和二年、当時まだ二十五歳だった横溝正史が二代目編集長に抜擢され、モダニズムやナンセンスを基調にした誌面の刷新を図った(9)。横溝編集長時代は一年そこそこであったが、その後の『新青年』の方向はこの時期に定まったと言っていい。殊に「押絵と旅する男」が掲載された昭和四年は、モダニズム路線が一層徹底された年で、映画・スポーツ・ファッションなどの記事が多くなっているほか、「モダン大学」なるシリーズには「接吻の種々層」・「銀座散歩術」・「カフェ陶酔法」・「シイク・ボーイ入門」等の記事が掲載されている(10)。

 こうした風潮に対して乱歩は「陰気なことや、心の隅っこをほじくることはもうはやらなかった。凡そそれとは正反対の、明るいナンセンスな興味が、青年読者を捉えていた(探偵小説十年・昭和七年四月)」として、自分のような探偵小説家が時勢遅れになってしまったことを嘆いている。そうして乱歩はだんだんと『新青年』から距離をおくようになり、昭和四年七月の「あの作この作」では「実は私を駄目にしたものは、「新青年」なのである。横溝君の主張した所のモダン主義(主義ではないかも知れない)という怪物が、旧来の味の探偵小説を、誠に恥かしい立場に追い出してしまった」とまで書くようになっていた(11)。

 この作品は附記に「前号予告のものが出来なかった(筆者注…前号に予告された「虫」は『改造』の方に発表している)。だが、そうそう違約することは許されぬので、旧稿を書きついで責をふさいだ」とあるように、言わば責任逃れのための作で「作者自身どうにも自信が持てなかった(探偵小説四十年)」とも書かれている。しかし浜田雄介氏がこの作品には「モダニズムの風潮の中で古めかしい物語に拘る」姿勢が見て取れ、その意味で「一種のマニフェスト」ではなかったかと言っているように(12)、どうも重要なメッセージが込められていたように思えてならない。つまり「押絵と旅する男」とは、モダン化する『新青年』と、その読者に対しての、浅草の側からの、そして探偵小説の側からの批評だったのではないか、ということである。そうしてみると明治十年頃に生まれた老人が、明治末年に生まれた<新青年>に向かって、「古めかしい」浅草の魅力を説く物語に乱歩が何を託そうとしたかが見えてくる気がするのである。

 

 乱歩は「浅草趣味」の中で、浅草を代表するものとして挙げた安来節の魅力をこう書いている。

僕達の通り言葉なんだが、あれの持つネジレ趣味である。ネジレというのはどこかの方言で、いやみと訳せばやや当る。いやみたっぷりなものを見ると、こう身体がネジレて来る。そのネジレを名詞に使ったのだ。我々は一応ネジレなるものを厭に思う。だがそのネジレさ加減があるレベルを越すと、今度はそれが言うに言われぬ魅力になる。

乱歩のネジレ趣味が徹底していたことは、自らを「現世のリアルを愛せず、架空幻想のリアルを愛する(探偵小説四十年)」人間だと言い、色紙を依頼されると「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」と書いていたことにも明らかである。「押絵と旅する男」を浅草的に読んでいくにあたって、この<ネジレ趣味>は有効だと思われるが、その際特に注意したいのは<感覚>のネジレである。

 既に多くの指摘があるように「押絵と旅する男」は視覚を扱った物語であり、ここには多くの<視界を歪める装置> ……蜃気楼、遠目がね、のぞきからくり、十二階の眺望…… が登場する。しかし話を視覚のネジレだけに限定してしまうと、乱歩の世界の広がりもかなり制限されてしまうように思う。ここで「浅草趣味」の中にある「いやみたっぷりなものを見ると、こう身体がネジレて来る」という言葉に注意してみたい。これも例によっておおげさな誇張表現だととられるかもしれない。しかしここにはいわゆるリアリズムとは別のリアリティの追究がある。

 我々はガラスを爪で引っ掻いた時、ゾッと寒気を感じる。これは本来耳で感じるはずの音に対して触覚が反応している例で、共感覚と呼ばれる現象である。乱歩の言葉も、いやみたっぷりなものを<見て>、ネジレという<触覚>を感じている。乱歩は体質的に共感覚を感じやすかったらしく、一つの感覚器が感じたネジレに全身で反応し、ある時はそれを怖がったり、又楽しんだりしていたということになる。

 乱歩は昭和六年にエログロの怪作「盲獣」を書く。殺人鬼である盲人が、美しい肢体の女性を触覚だけしかたよるもののない真っ暗な密室に引きずり込む話である。その犠牲者・水木蘭子は初めのうちこそ抵抗を試みるが、いつしか「おお可哀そうな眼あきさんたち、お前さんがたは、このなんともいえぬ不思議な、甘い、快い、盲目世界の陶酔を味わったことがないのだ」と、考えるようになってくる。松山巖氏はこの作品に展開された「触覚芸術論」を鍵に、卓越した「人間椅子」論を書いているが、ただ氏が言うようにこの物語を単に視覚から触覚への回帰宣言だと言い切ってはならないだろう(13)。なぜなら「蘭子の指は、肌は、徐々に昆虫の触鬚に近づいていった。どんな些細な空気の震動も、どんな微小な物質も、彼女の触覚の眼を逃れることはできなかった。それには形でない形があった。色でない色があった。音でない音があった」という件りがあるからだ。これは視覚に対する触覚の優位を説いた言葉ではない。蘭子の体験した世界は、触覚からはじまり、視覚、聴覚を感じ取っている。つまり感覚同士の交響、共感覚の世界を描いているのである。

 精神病理学者の木村敏氏は人間の五感を統合する共通感覚の存在を仮定している。これによって視・聴・触・味・嗅の五感がそれぞれ別の感覚と連携し、さまざまな共感覚をひきおこすことが説明できる。また共通感覚によってさまざまな感覚を統合・分析できるのだから、諸感覚にまたがって感覚される運動・静止・大きさ・数などを実感できるのもそのおかげであるという(14)。乱歩の文体が装飾過剰でこってりしてみえる理由の一つとして、感覚のリアルさを突き抜けて、共通感覚のリアルさまで律義に表現しようとしていることが挙げられるのではないだろうか(15)。つまり乱歩作品においては、扱う内容のネジレもさることながら、そのネジレ趣味は文体にまで波及しているのである。

 さてこの作品が「不可思議な大気のレンズ仕掛け」である魚津の蜃気楼の描写から始まるのは、それが<視覚を歪める装置>であったからに他ならないが、早速そこに「本ものの蜃気楼を見て、膏汗のにじむような、恐怖に近い驚きにうたれた」という共感覚的な記述を見つけることができる。

蜃気楼の魔力が、人間を気ちがいにするものであったなら、おそらく私は少なくとも帰り途の汽車の中までは、その魔力を逃れることができなかったであろう。二時間の余も立ちつくして、大空の妖異をながめていた私は、その夕がた魚津をたって、汽車の中に一夜を過ごすまで、まったく日常と異なった気持ちでいたことは確かである。

 全体の構成から考えると特に必要だとは思えない蜃気楼が細かく描写されるのは、私を「別の世界」「一時的狂気」に導くためである。SFやファンタジーなら異次元への入り口で主人公が気を失ったりタイムマシンに乗ったりということになるのだが、ここでは蜃気楼を「見た」というだけのことで異次元に誘いこもうとしているので、ずいぶん強引に思える。しかしこのために現空間と異次元空間との境目を曖昧なままにしておけるので、最後まで私を夢か現実か判断のつかない不安定な宙吊り状態に留めておくこと成功しているのだとも言える。

 さて私はこうしてただでさえ非日常体験である旅の途中に、更に「ボンヤリと」させられて上野行きの列車に乗り込む。車内にはどこか怪しげな老人が一人いるだけで、乗客も乗ってこないし、車掌も来ない。そして外ははてしのない暗闇である。

私は、四十歳にも六十歳にも見える、西洋の魔術師のような風采のその男が、だんだんこわくなってきた。こわさというものは、ほかにまぎれる事柄のない場合には、無限に大きく、からだじゅういっぱいにひろがって行くものである。私はついには、産毛の先までこわさにみちて、たまらなくなって、突然立ち上がると、向こうの隅のその男の方へツカツカと歩いて行った。

人は理性の働きだけで「こわさ」を感じるのではない。様々の感覚器から送られて来る情報を統合・分析し「雰囲気」というものを察知し、それが「こわさ」のもとになることが多い。だから「こわさ」を感じること自体、共通感覚の作用である。しかしここでは更にその感じが身体中に広がり、産毛の先まで満ちていくというのであるから、私の共通感覚は並外れて鋭敏であったことがわかる。

 そして私は「その男がいとわしく、恐ろしければこそ、私はその男に近づいて行ったのであった」という。列車の中の二人はどちらが先に誘ったというのでもなく、お互いがお互いを引き付けている。つまり共鳴しあっているのである。

 ここで浅草の安来節の魅力として乱歩が挙げているもう一点について考えてみることにしよう。

和製ジャズと言われている通り、小屋全体が一つの楽器であるが如き、圧倒的な、野蛮極まる、およそデリケートの正反対であるところの、あの不協和音楽の魅力である。これは浅草公園のある小屋に限られている現象で、まして他地方の安来節にはほとんど見られないところだが、舞台の唱歌がだんだん高潮に達して来ると、小屋全体に一種の共鳴現象が起こるのだ。最初は半畳とか弥次とかいうものだったにちがいない。それが徐々に形をなして、音楽的になって、いつの間にか今日の舞台と見物席の交響楽が出来上がったのであろう。それを第三者として傍観していると、数時間にして、さしもの音楽好きも、すっかり堪能させられるのである。

ここでは舞台と見物席が一体になること、つまり見る側と見せる側が、お互いの本来の役割を忘れて連帯してしまうことが指摘されている。

 乱歩の作品では自分の趣味のために(それも変態性欲的なものが多いのだが)、他者を犠牲にする犯罪者が多く登場する。先述の「盲獣」などその最たるものであるが、この老人の場合、自分の価値観に絶対の信頼をおいて他者を巻き込もうとしている点で、そうした犯罪者に似ている。ただ自分の趣味を無理強いしていないことが異なっており、この一点によって老人はかろうじて犯罪者であることを免れ、この物語を探偵小説とはちがうジャンルのものにしているのだと思われる。つまり聞き手である私の側に老人の趣味を受け入れる素質がもともと備わっていたのである。

 「私が彼の顔をのぞきこむと、(老人は)待ち受けていたように、顎でかたわらの例の扁平な荷物を指し示し、何の前おきもなく、さもそれが当然の挨拶ででもあるように「これでございますか」とい」う。驚く私にかまわず、老人は「これがごらんになりたいのでございましょう」と追い撃ちをかける。と、私も私である。

「見せてくださいますか」

 私は相手の調子に引き込まれて、つい変なことをいってしまった。私は決してその荷物を見たいために席を立ったわけではなかったのだけれど。

「喜んでお見せいたしますよ。わたくしは、さっきから考えていたのでございます。あなたはきっとこれを見にお出でなさるだろうとね」

 乱歩によれば浅草の安来節は舞台と見物席の意志が統一されて、はじめて魅力あるものになるのだという。ちょうどそれと同じように見る側と見せる側の共鳴現象は、この列車内でもおきていたのである。

 既に指摘したように老人と私の世代は異なり、私にいたっては浅草のシンボルである十二階に登ったことさえないモダンボーイであった。しかし乱歩はこのモダンボーイのうちに潜在する浅草趣味、つまり<ネジレ>と<共鳴>を引き出している。世代は異にしても、また実際の浅草を知らないでも、浅草趣味は共通だとでも言わんばかりに……(16)

 さて、私は風呂敷の中にあった押絵を見るのだが、そこで直観的に「奇妙さ」を感じる。十七八の美少女と白髪の老人とが濡れ場を演じているという構図の奇妙さもさることながら、私を驚かせたのは「押絵の人物が二つとも生きていたこと」である。

 木村敏氏によれば、共通感覚不全の病である離人症の患者は、人間的なあらゆる情感を失い、例えば「絵を見ていても、いろいろの色や形が眼の中へはいり込んでくるだけ、何の内容もないし、何の意味も感じない」という(14)。そうした症状と対比すると、ここで私が押絵の中の人物に生命を感じとっているのは、共通感覚不全ではなく、逆に鋭敏すぎることを示している。

 老人は私の反応を見て「ああ、あなたはわかってくださるかもしれません」と叫ぶように言うが、これは同好の士を見つけた喜びであり、二人の距離はこの後ますます近づくことが予想できる。

 ここで老人はおもむろに遠目がねを取り出し、それで押絵を覗くことを薦める。

娘は動いていたわけではないが、その全身の感じが、肉眼で見た時とはガラリと変わって、生気に満ち、青白い顔がやや桃色に上気し、胸は脈打ち(実際私は心臓の鼓動をさえ聞いた)肉体からは縮緬の衣装を通して、むしむしと若い女の生気が蒸発しているように思われた。

遠目がねは<視覚を補強する装置>としてではなく、ここでは絵の中の娘に生気を与えるものとして、言い換えれば<共通感覚を補強する装置>として登場している。

 私はこの体験にどぎまぎして「私の頭がどうかしているようです」と白状するが、老人の方は喜びを隠せないようで、「あれらは、生きておりましたろう」と囁きかけるのだから、老人も共通感覚の鋭敏な人間であることがわかる。こうして相手の性向がわかったところで老人は「あなたは、あれらの、ほんとうの身の上話聞きたいとはおぼしませんかね」と言葉をかけるのである。

「ぜひ伺いたいものですね」

 私は、普通の生きた人間の身の上話をでも催促するように、ごくなんでもないことのように、老人をうながしたのである。すると、老人は顔の皺を、さもうれしそうにゆがめて、「ああ、あなたは、やっぱり聞いてくださいますね」と言いながら、さて、次のような世にも不思議な物語をはじめたのであった。

 語り手の私は、どうしてこんなことを言ったのか、と自分の言動でありながら説明がつけられない。しかしそれは「私の夢」でも「一時的狂気の幻」でもない。浅草の安来節の小屋の中では見るものと見られるものとが、立場を忘れて共鳴するように、ここでは客車という劇場の中で、老人と私が共鳴し、融合しあって、本来の「老人」や「私」を離れた<浅草>という名の共同体が生動しているのである。

 そして十二階である。これも老人にとっては「どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこれんな代物」であるとされる以上、これもまた<視覚を歪める装置>であったということになる(17)。

雲が手の届きそうな低いところにあって、見渡すと、東京中の屋根がごみみたいにゴチャゴチャしていて、品川のお台場が、盆石のように見えております。眼まいがしそうなのを我慢して、下をのぞきますと、観音様のお堂だって、ずっと低いところにありますし、小屋掛けの見世物が、おもちゃのようで、歩いている人間が、頭と足ばかりに見えるのです。

十二階からの眺望について、老人の驚きや畏怖の言葉は、滑稽なほどおおげさに見えるが、当時の人々の反応はおおよそこんなところだったのだろう。しかし老人の感動がこれほど大きいのは、単に<高さ>だけが理由ではない。頂上まで達する経過も重要であろう。十二階にはエレベーターが設置されていたが、建設後間もなく使用禁止になった。人々は階段を使って昇るしかないのだが、その階段には「日清戦争の当時ですから」「吠えながら突貫している日本兵や、剣つき鉄砲に脇腹をえぐられて、ふき出す血のりを両手で押えて、顔や唇を紫色にしてもがいているシナ兵」といった「毒々しい血みどろの油絵」がかかっていたという。

そのあいだを、陰気な石の段々が、カタツムリの殻みたいに、上へ上へと際限もなくつづいておるのでございます。

気味の悪い絵の懸かった薄暗い階段というのは、怖いもの見たさの心をくすぐるが、さらに螺旋状の階段を

グルグル昇って眼まいを感じる身体感覚は、中谷克己氏が指摘するように、「遊び」の重要な側面としてカイヨワが言及したイリンクス(陶酔)であると言ってよいだろう(18)。

頂上は八角形の欄干だけで、壁のない、見晴らしの廊下になっていましてね、そこへたどりつくと、にわかにパッと明るくなって、今までの薄暗い道中が長うござんしただけに、びっくりしてしまいます。

こうした楽しい<難関>を経た後に十二階という高台から下界を鳥瞰するというメインディッシュがくるのであるから「眼まいがしそう」に思ったというのはむしろ当然であろう。

 一通りの話が済んでから、老人は兄が押絵になってしまったことを両親に告げても、全くとりあってくれなかったことを自嘲気味に語る。

おかしいじゃありませんか。ハハ、ハハハハハ」

 老人は、そこで、さも滑稽だといわぬばかりに笑い出した。そして、変なことには、私もまた老人に同感して、いっしょになってゲラゲラと笑ったのである。

ここでも私は自分の行動に説明がつけられず、ただ「変なこと」としか言えない。これも老人に「同感して」しまったがゆえの共鳴現象のなせるわざであろう。

ああ、とんだ長話をいたしました。しかし、あなたはわかってくださいましたでしょうね。ほかの人たちのように、私を気ちがいだとはおっしゃいませんでしょうね。ああ、それで私も話し甲斐があったと申すものですよ。

 話が終ると老人は私に駄目押しの同意を求める。彼の言葉からすると私は言葉には出さないまでも肯定の返事をしたように思える。しかしよく考えてみると、こうした質問が出ること自体、もはや両者の間には自他の区別を忘れることのできる一体感がなくなっていることになる。つまり二人の間にはまた見る側と見せる側という対立関係が生じてしまっているのである。

 かつて老人の兄は、「この遠目がねをさかさにして、大きなガラス玉の方を眼にあてて、そこから私を見ておくれでないか」と頼んだ。少年時代の老人は「気ちがいじみてもいますれば、薄気味わるくもありましたが、兄がたって頼むものですから、仕方なく、言われた通りにしてのぞいた」経験がある。今まで見てきたようにこの物語には納得ずくの同意はあっても、強制はなかったはずである。そこが「押絵と旅する男」で犯罪がおこらない理由であった。たしかにこの物語で犯罪はおこらない。ただ両者の一体感が失われた時、そこには<別れ>が来る。弟が遠目がねを覗いた時から、兄は押絵の中以外に現れることがなかったように、老人も汽車が山間の小駅に止まると、ここの親戚に泊まるとだけ言い残して消えてしまい、私の夢か幻のような物語の中にしか現われないのである。

 最後にもう一つ「汽車の窓」という<装置>にもふれておきたい。鉄道の発達が人々の時間・空間観念を激変させてしまったことはいまさら指摘するまでもないが、

山路の風情、村を次から次へと見比べて行く面白味、又は見らるゝ村の自ら装はんとする身嗜なみ、又時代によつて心ならずも動かされて行く有様、斯んなものを静かに眺めて居ることは、「汽車の窓」にしてはじめて可能である。

と柳田国男が述べているように(19)、当時の人々にとってはこうした視線の獲得がどれほど新鮮な事件であったかも考慮すべきである。そうして初めて「この絵を窓に立てかけて、兄や兄の恋人に、外の風景を見せてや」るという老人の言葉が、新しいもの好きの兄への心遣いであったことが理解されよう。

 そもそも物語の発端で私が怪しい老人のもとに歩み寄らずにはいられなくなったのも、「窓ガラスに顔を押しつけて」暗闇を見てしまったからであった。そして挨拶もそこそこに下車してしまう老人を「窓から見ていると」その後ろ姿が押絵の中の老人そのままの姿であったことを発見するという物語の結末も、「汽車の窓」という<視界を歪める装置>が機能してのことであった。

 

 さてこれまでみてきたように「押絵と旅する男」は、浅草という場所のもつ<ネジレ>と<共鳴>を、うまく取りいれた作品であったことがわかる。しかしこうした浅草趣味は何も「押絵と旅する男」に限って指摘できることではない。これは乱歩の探偵小説を性格づける重要な鍵概念であると思われるのである。

 「屋根裏の散歩者」は、どんな仕事も手につかず、すっかり日常生活に飽き果てている郷田三郎が、ふとしたきっかけから犯罪研究なるネジレ趣味にうちこむことに始まる。そんな時現れた同好の士が明智小五郎であった。その後二人の趣味は益々高じて、一人は殺人を犯して警察に自首し、もう一人は後に名探偵となるわけだが、動機が動機だけにこの二人の役どころは入れ替え可能であり、明智が犯罪を犯し、郷田が謎解きをしてもよかったのである。日常生活に飽き果て、ネジレたものへの執着を共通の趣味とし、一方が仕掛け、一方が謎解きをする…… この時、真の連帯感が産まれ、自分と相手の区別も忘れ、日常から非日常の世界に足を踏みいれることができるのである。思えば処女作「二銭銅貨」も仲間同士の知恵比べであったし、「D坂の殺人事件」も(結局犯人は第三者であったが)仲間同士の知恵比べである。だいぶ後年の作ではあるが、少年物における二十面相も、明智や少年探偵団という観客がいて初めて犯罪という見世物をしているように見えるが、これもただ二十面相が元サーカス団の団員だったからというだけでは説明のつかないことだろう。

 乱歩は生活苦の果てに罪を犯してしまう人間や、これまた生活のために犯人をつきとめる警察官のことなどは眼中になかった。彼にとってはネジレ趣味のために罪を犯し、同じくネジレ趣味のために推理するということが興味の対象なのである。<ネジレ>という共通の趣味を持った犯人と探偵で気のあわないわけがない。二人はただちに<共鳴>を始めるに違いないのである。だから乱歩の探偵小説では犯人と警察のシビアな闘いが繰り広げられることはついになく、結局性懲りもなく失敗を続ける怪人と、そんな二流の盗賊を相手にする二流探偵のドタバタ劇におさまっていくことになるのである。乱歩の探偵小説の世界をこのようなものとして考えると、およそ探偵小説とは言えない「押絵と旅する男」の人物設定も実に探偵小説めいていたことがわかる。もちろんこの作品が論理的思考を重んじる本格的探偵小説でないことは明らかであるが、後の通俗長編のようなエログロの満載された変格ものでもない。乱歩は本格もの・変格ものの優劣をめぐる論争で、ついにはっきりと態度表明をできなかったが、それは彼の探偵趣味というものが、もともとどちらからもはみだすものだったからではないだろうか。乱歩の探偵趣味が浅草趣味と軌を一にするものだという彼自身の言葉を信用すれば、かくも浅草趣味にあふれた本作こそ、本格・変格論議を超えて最も乱歩的な<探偵小説>だったと言うことができるのではないだろうか。

 

 かくして「押絵と旅する男」は昭和初年、雑誌『新青年』やその読者をはじめとする世の中の風潮が、泥臭い探偵小説を愛好するものから、洗練されたモダニズムに移っていることを背景に、モダンボーイたちの心の内に潜む浅草趣味を引きずり出し、もう一度浅草に立ち返ることを、探偵小説に立ち返ることを訴えた小説であったと思えるのである。しかしその結果として乱歩が完全な敗北をしたことは、モダン化した『新青年』が益々好評を博し、一方の乱歩は緊張の糸が切れたかのように講談社系の雑誌に通俗長編を書き飛ばしていくことに明らかである。あるいはこう言うこともできるかもしれない。大正十二年四月にデビューした乱歩は、同年九月一日の関東大震災をきっかけとする浅草黄金期の終焉とともに、早くもその才能を十分に開花させる可能性を失ったのだ、と。

 

   注

(1) 日露戦争の頃から高学歴にも関らず就職先がないという高等遊民の問題が浮上してきた。しかし大正になると漱石が造形した『それから(明治四十二年)』の代助のように、いささか趣味的な新高等遊民が現われるようになったという。(竹内洋・「受験家族と新高等遊民の誕生」・『立身出世と日本人』・平成八年・日本放送出版協会)

(2) 「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」(『ヴァルター・ベンヤミン著作集6 ボードレール』 ・昭和五十年・晶文社)

(3) 海野弘・『モダン都市東京 日本の 一九二〇年代』(昭和五十八年・中央公論社)(昭和六十三年 中公文庫)、松山巖・『乱歩と東京 1920都市の貌』(昭和五十九年・PARCO出版局)、笠井潔・ 『物語のウロボロス』(昭和六十三年・筑摩書房)等を参照のこと。

(4) 石井研堂・『明治事物起原』(昭和十九年・春陽堂)(昭和四十四年・日本評論社)

(5) 東京都百年史編集委員会・『東京百年史 第四巻』(昭和五十四年・ぎょうせい)によれば、関東大震災における下町の焼失面積は日本橋区の一〇〇%をはじめとして、浅草区で九六%、本所区で九五%と続いている。ちなみに山の手では芝区の二十四%が最大で、麻布区、牛込区では〇%となっている。

(6) 今和次郎編・「盛り場」(『新版大東京案内』・昭和四年・中央公論社)(昭和六十一年・批評社)

(7) 安藤更生・「銀座の客」(『銀座細見』・昭和六年・春陽堂)(平成四年・中公文庫)

(8) 昭和二年の休筆中に乱歩が全国を放浪した時の成果が「押絵と旅する男」における魚津の蜃気楼だったことは先述の通りだが、何も地方ばかりをぶらついていたわけではない。「探偵小説四十年」にはこんなことも書いている。

浅草公園の五重塔あたりに、みすぼらしい部屋借りをして、近所の一膳めし屋で食事をして、朝から晩まで浅草公園をぶらつくのを日課にしたり、そして、公園のベンチに夜の一時までも二時までも腰かけていて、お巡りさんにつかまって勾留されかけたり、ときどき変装をして公園を歩くものだから、それを又とがめられたり

これは「屋根裏の散歩者」の郷田が浅草で「犯罪のまね事」をする件りの、「しばしば変装して、町から町をさまよい歩きました。労働者になってみたり、乞食になってみたり、学生になってみたり、いろいろの変装をした中でも、女装をすることが最も彼の病癖を喜ばせました」という経験を正確になぞっている。自己嫌悪・自信喪失のただなかで、乱歩は浅草そのもの、犯罪そのものになりきり、ネジレ趣味の「病癖を喜ばせ」ようとしていたのがわかる。

(9) 横溝は『新青年』昭和二年三月号の「編集局から」で、「「新青年」といふ名前を、英語に翻訳してみると、モダアン・ボオイとなる」と書き、編集同人として入社したばかりの渡辺温は「我々のお祖父さんやお父さんが考えてゐるたぐひの色々の事は、我々自身がお父さんやお祖父さんになつてしまつてから考へることにしようではありませんか」と挑発している。

(10) この辺りについては『新青年』研究会の『『新青年』読本 全一巻 昭和グラフィティ』(昭和六十三年・作品社)や、同誌の元編集長・乾信一郎の『「新青年」の頃』(平成三年・早川書房)等に詳しい。

(11) 鈴木貞美氏は、昭和二年における乱歩の放浪は「一寸法師」に嫌気がさしたからだけでなく、『新青年』の方針転換と無縁ではないという。(「乱歩と『新青年』」・『ユリイカ』・昭和六十二年五月・青土社)

(12) 浜田雄介・「江戸川乱歩『押絵と旅する男』 レンズ仕掛けの「語り」」(『国文学 解釈と鑑賞』・平成三年四月・至文堂)

(13) 松山巖・「目と舌と鼻、そして指」(前掲書)

(14) 木村敏・「離人症の精神病理」(『自己・あいだ・時間』・昭和五十六年・弘文堂)

(15) 江戸川乱歩と同じように共通感覚が鋭敏だったと思われる作家に宮沢賢治がいる。(拙論・「共通感覚の文学 心象スケッチの言葉がめざしたこと」・『宮沢賢治11』・平成四年一月・洋々社)参照。

(16) 助川徳是氏は「江戸川乱歩 「押絵と旅する男」を視座として」(『国文学 解釈と鑑賞』・昭和五十四年九月・至文堂)で、この物語には西洋文明に対する違和感・恐怖感があることを指摘している。老人はともかくとして、モダンボーイたる私の方も老人を「西洋の魔術師」のようだと恐れているあたりにそれが窺えるが、案外これが当時の人々の深層心理を語っているのかもしれない。しかし明治時代の人々がみな一様に近代に対する恐れを抱いていたわけではない。例えば老人の兄は「妙に異国物が好きな新しがり屋でござんしたからね」という人物であった。

(17) 前田愛氏は「塔の思想」(前田愛・『都市空間の中の文学』・昭和五十七年・筑摩書房)の中で、東京の庶民たちが初めて「見下ろす」視線を獲得することになるのは、浅草十二階の誕生以降であったと言う。

(18) 中谷克己・「「押絵と旅する男」論 江戸川乱歩の深層構造」(『青須我波良』・平成五年六月)。この他にも氏の視点と本論の視点が交わる箇所のあることを書き添えておきたい。

(19) 柳田国男・「風景の成長」『豆の葉と太陽』(昭和十六年・創元社)(柳田国男全集 第二巻・昭和六十年・筑摩書房)。こうした視点に気付かされたのは『風景の生産・風景の解放』(佐藤健二・平成六年・講談社)による。