宮沢賢治の手ざわり

信時 哲郎

 

   Ⅰ 共通感覚の文学

 宮沢賢治の文学的活動は、中学時代の短歌創作に始まったと言われている。そこには盛岡中学の先輩にあたる石川啄木の影響らしきものも窺えるが、およそ短歌的とは思われない不思議な表現を含むものも数多く残されている。

  白きそらはひとすぢごとにわが髪を/引くこゝちにてせまり来りぬ。  26

  黒板は赤き傷受け雲垂れてうすくらき日をすすり泣くなり。      32

  ブリキ缶がはらだゝしげにわれをにらむ、つめたき冬の夕方のこと   59

  西ぞらの黄金の一つめうらめしくわれをながめてつとしづむなり。   69

  石投げなば雨ふると云ふうみの面はあまりに青くかなしかりけり    77

  泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんみづうみの碧の見るにたえねば   78

  うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり   79

  ちばしれるゆみはりの月わが窓にまよなかきたりて口をゆがむる    94

本来生命を持たないはずの黒板やブリキ缶が、ここでは生き物であるかのように賢治に向かって迫ってきている。これを賢治独特の比喩的表現であったということはできるだろう。しかしこれを本当にただレトリック上の問題とだけ捉えていいのだろうか。

 大正十三年、賢治は心象スケッチ『春と修羅』と童話集『注文の多い料理店』を自費出版する。童話集『注文の多い料理店』の序文は、

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。

ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。

と書かれており、いかにも童話集にふさわしい序文のように思える。又、賢治自身が書いたと思われる「広告ちらし」の中にも、「これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。多少の再度の内省と分析とはあつても、たしかにこの通りその時心象中に現はれたものである」と書かれている(1)。

 賢治は生命を持たない黒板やブリキ缶が迫ってくるという不思議な感覚を短歌に詠んでいたが、「林や野はらや鉄道線路やら」を歩きまわっているうちに「虹や月あかりから」「おはなし」をもらってくるという記述は、まさしくその延長上に位置していると言ってよいのではないだろうか。このような写真にもテープレコーダーにも収められない世界の姿、心でしか捉えることのできない「この世界」の「ほんたう」の姿を、「そのとほり書いた」ものこそ、賢治が一貫して表現しようとしたものだったのではないだろうか。

 もちろん黒板やブリキ缶、林や野はらが話などしてくれるはずはない。しかし例えば「どんぐりと山猫」の中の、「まはりの山は、みんなたつたいまできたばかりのやうにうるうるもりあがつて、まつ青なそらのしたにならんでゐました」という一節を、生き物でもない山が「うるうるもりあが」ることなど決してないし、数千年も前から山は山なのであって「たつたいまできたばかり」であるはずはない、と言って切り捨ててしまってよいのだろうか。山猫からの突然の葉書に大喜びする一郎にとって、「世界」は確かにこのようなものとして感じられたのではないだろうか。

 九月の朝の、真っ青な空の下に並んだ山を見ても、それが単なる「山」であるとしか感じられないとしたら、それは「卑怯な成人たち(広告ちらし)」の合理的・客観的な「目」でしかものを見ていないからである。少年少女の持つような「純真な心意(同)」によれば、九月の山は今にも動きだしそうに「うるうるもりあがって」いると感じられるはずである。

 ところで離人症と呼ばれる精神疾患がある。患者には「世界」が次のように感じられるという。

以前は音楽を聞いたり絵を見たりするのが大好きだったのに、いまはそういうものが美しいということがまるでわからない。音楽を聞いても、いろいろの音が耳の中へはいり込んでくるだけだし、絵を見ていても、いろいろの形が眼の中へはいり込んでくるだけ。なんの内容もないし、なんの意味も感じない。テレビや映画を見ていると、本当に妙なことになる。こまぎれの場面場面はちゃんと見えているのに、全体の筋がまるで全然わからない。場面から場面へぴょんぴょん飛んでしまって、そのつながりというものが全然ない。(略)空間の見え方もとてもおかしい。奥行きとか遠さ近さとかがなくなって、なにもかも一つの平面に並んでいるみたい。高い木を見てもちっとも高いと思わない。鉄のものを見ても重そうな感じがしないし、紙きれを見ても軽そうだと思わない。とにかくなにを見てもそれがちゃんとそこにあるのだということがわからない。色や形が眼にはいってくるだけで、「ある」という感じがちっともしない(2)。

一読したところ彼女の「五感」に異常はない。それなのに彼女を取り囲む「世界」は全くリアリティを欠いてしまっているのである。木村敏氏によれば、離人症とは共通感覚不全の病であるという(2)。共通感覚とは「五感」のすべてに共通して含まれるとされる感覚で、例えば黒板やガラスを爪で引っ掻くと寒気がするという人がよくいるが、これは聴覚が触覚に作用する現象(=共感覚)で、こうしたことは五感それぞれの連携をつかさどる共通感覚の働きを待ってはじめて説明がつくことになる。つまり焼肉屋の店頭で思わず食欲をそそられるのも、匂いが食欲を増進させるという共通感覚の複雑な作用のおかげだということになるだろうし、時間・空間の認識はもちろん、芸術作品に感動するのも、また特定の人物に恋心を抱くことも、共通感覚の複雑な作用のおかげだということになりそうである。

 ではこの共通感覚が、並外れて鋭敏な人がいたらどうなるだろう。離人症患者の「世界」が生気のないものであったとすると、その逆、全てのものが生気に満ち溢れて感じられることになる。つまり空や風、森、湖、石などが自分に向かって迫ってくるように感じられたり、動植物と会話ができるように感じられたりするのである。そう、文学活動の初めから一貫して、命なきものの生命感、声なきものの声を書き綴ってきた宮沢賢治の「世界」とは、まさしくこの非・離人症的世界だったのである。そして心象スケッチとは、賢治が自らの共通感覚を通して感じた何か、ただ「世界の手ざわり」とでも言うしかないような「何か」を表現した言葉だったのである(3)。

 ところで短歌の技法や、童話集・序文の言葉が「修辞」ではなかったにしても、賢治の表現には依然として難解さがついてまわる。しかし賢治はそれにも自覚的で、童話集・序文には「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです」と開き直って書いている。しかし同時に「どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。(広告ちらし)」とも書いている。

 言葉が難解だということ、その責任は何も表現者である賢治にばかりあるわけではない。受け入れる側の共通感覚が、近代的な合理性や客観性を尊ぶうちに、いつしか冷淡で「冬のやうな工合(4)」に、即ち「卑怯な成人たち」の感覚に陥ってしまったことも遠因ではないだろうか。

 哲学者の中村雄二郎氏は、人類の歴史の中で、客観的な感覚としての視覚が偏重されるようになってから、分析的・客観的な知が独走することとなり、感覚と理性とは分裂・対立を余儀なくされた。しかし感覚と理性の接点である共通感覚を覚醒させることによって分裂してしまったものを再び一体化させ、「世界」自体をもっと血の通ったものに組み直す必要があるのではないか、またそうしたことを伝えることのできる多義的なイメージを持った言葉を回復させるべきではないか、と言う(5)。

 まさしく賢治の言葉こそ、近代人の忘れてしまった豊かな「世界」 ――「氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむ(童話集・序)」だけで満足できる「世界」、また「ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに(同)」感じられる「世界」。つまり飢えや貧困に苦しむ現実の岩手県ではなくて、「ドリームランドとしての日本岩手県(広告ちらし)」、即ちイーハトヴ―― を、共通感覚によって思い出させる役割を帯びていたと言うことができるのではないだろうか。

 もちろんこれは現実世界の様々な問題に対する答には全くなっていない。賢治のユートピア構想によれば、飢えた人を前にしても、すきとほった風と桃いろの日光しか与えることができないからだ。彼が目指したのは「畸形に捏ねあげられた煤色のユートピア」の構想ではなく、あくまで「ドリームランドとしての日本岩手県」を万人の心象の中に「実在」させることだったのである。

 賢治は心象スケッチの目的について、「歴史や宗教の位置を全く変換(大正十四年二月九日・森荘已池宛書簡)」することだと書いているが、それは決して大袈裟ではなかった(6)。なにしろ中村氏の提唱するような、共通感覚の復権と知の組みかえという人類史的な大転換を、たった一人でやり遂げようとしたのであるから……

 

   Ⅱ 謄写版による心象スケッチ

 さて二冊の本による「歴史や宗教の位置の変換」はどうなったのだろう。結論から言えば「宗教家やいろいろの人たち」は「どこも見てくれませんでした」ということになる(前掲・森荘已池宛書簡)。

 『春と修羅』は「詩」としてなら、幾人かの評者から絶賛に近い言葉を与えられた。しかし「詩といふことはわたくしも知らないわけではありませんでしたが厳密に事実のとほりに記録したものを何だかいままでのつぎはぎしたものと混ぜられたのは不満でした。(大正十四年十二月二十日・岩波茂雄宛書簡)」と言う賢治が、彼らの言葉を素直に受けいれられたとは思えない。

 賢治はこの後すぐに『春と修羅 第二集』の出版を計画しているのだが、これは計画だけに終わり、実際に出版されることはなかった。ところでこの第二集の出版は、活字によるものではなく、岩波茂雄宛て書簡に「こんどは別紙のやうな騰写刷で自分で一冊こさえます」と書いて、心象スケッチの「鳥の遷移」を同封していることからわかるように、謄写版によるごく小規模なものが考えられていたようである。森荘已池氏に宛てても「夏には謄写版で次のスケッチを拵えます(大正十四年十二月二十三日)」と書いているので、この計画はかなり具体化していたように思える。

 ここで考えてみたいのは、なぜ謄写版印刷という方法が選ばれたか、である。賢治は私的に短歌を書き溜める段階から、同人誌、自費出版と、近代作家としてはまっとうな出世コース(?)に乗っていたはずである。それなのにここで活字印刷から謄写版印刷への「格下げ」を自ら決意したことについては、考えてみる必要があるのではないだろうか。

 岩波書店に向かって、『春と修羅』(第一集)と「あなたがたがお出しになる哲学や心理学の立派な著述とを幾冊でもお取り換へ下さいますならわたくしの感謝は申しあげられません」という賢治であるから、経済的理由を第一に挙げることができるだろう。しかし賢治が積極的に謄写版印刷に期するところがあった、という可能性はないだろうか。例えばオングが指摘するように

 本の生産に用いられた大量生産方式のために、本を思想の伝達の道具であることばの容器というよりも、物品として考えることが可能になったし、またそう考えることが必要になったのだった。本はますます製品として、そして売り捌かれるべき商品としてみなされるようになった。生きている人間の言葉である語はある意味で物象化される(7)。

といったことを、賢治自身が感じた可能性はないだろうか。

 『春と修羅』は全く売れず、出版元の関根書店が、在庫を一斉に処分してしまった結果、ゾッキ本として扱われるようになったと言われている。「歴史や宗教の位置を全く変換しやう」というくらい思い入れのあった自信作が、物品として、商品として扱われていることに、賢治は平気な顔をしていられただろうか。ましてそんな賢治が一年ほどの冷却期間の後に、同じ方法によって続編を出すほど、果たして能天気であっただろうか。

 賢治は、大正十四年八月十四日に森荘已池氏に宛てて

あなたの作品の清浄さうつくしさ、いろいろな模様のはいった水精のたまを眼にあててのぞいてゐるやうな気がします。早く一冊にしてください。わたくしの微力から たとへそれが小さいものであらうとも。小さくても一頁づつがふしぎな果樹園のやうになった本ができます。あなたのならどれだって中央のものより一段上です。どうか自重してください。詩の政治家になんぞならないことをぼくは至心に祈ります。

と書いている。この頃に賢治が抱いていた詩壇や出版界についての反感とともに、詩集とは小さくてもいいものになりうることを、いや政治力を背景としない小さいものこそがいいものなのだ、とでも言いそうな口振りではないだろうか。

 そしてもう一つ忘れてはならないのが、第一集の序文で「正しくうつされた筈のこれらのことばが」「すでにはやくもその組立や質を変じ/しかもわたくしも印刷者も/それを変らないとして感ずることは/傾向としてはあり得ます」と戒めているにもかかわらず、いつしか印刷された活字たちが固定化・絶対化していることに気づいた可能性である。

 賢治が推敲をよくした人だというのは有名で、現存するものだけでも四、五回の下書き稿が残っているのはざらで、既に雑誌に掲載された作品や、手元に残った『春と修羅』の数冊にまで推敲の手を入れていたことがわかっている。賢治の作品は、その時々に一番ふさわしい形に書き換えられるのであり、決定稿というものは原理的に存在しない。しかし日本中にちらばってしまった印刷物をその時々の形に改めることは、さすがの賢治にもできなかった。本来流動的であるはずの言葉たちは、印刷されたまま活字として化石してしまい、もはや生きた言葉ではなくなってしまっているのである。

 オングはまた次のような指摘を行っている。

印刷されたテクストは、著者のことばを、決定的な、あるいは「最終的な」かたちで示すと考えられている。というのも、印刷は、最終的なものでないと具合がわるいからである。いったん活字の組版が閉じられて締めつけられ、あるいは、写真リトグラフの平版がつくられ、それが紙に印刷されると、テクストは、手書きのものほど簡単には(削除や挿入などの)変更がきかなくなる。対照的に、手書き本は、その書き込みや欄外注をとおして、本がもっている境界の外部の世界とたえず対話をかわしていた。手書き本には、声による表現のやりとりにまだ近いところがあったのである。手書き本の読者は、印刷むけに書かれたものの読者ほど、著者から隔絶されてはいなかったし、著者にとって不在でもなかったのである(8)。

謄写版印刷は厳密な意味での手書き本であるとは言えない。しかし活字によるものとは違って、そこには大きな字や小さな字、書き損じの字もあるだろうし、インクがかすれたりにじんだりすることもあるだろう。それらは読者に、著者・賢治の人間を感じさせるに十分な「情報」であるというだけでなく、テクストの「流動性」をアピールするにも役立つのではないだろうか。「こんどは別紙のやうな謄写刷で自分で一冊こさえます。いゝ紙をつかってじぶんですきなやうに綴ぢたらそれでもやっぱり読んでくれる人もあるかと考へます(前掲・岩波茂雄宛書簡)」という言葉は、単なる痩せ我慢ではなく、ある種の自負さえ窺えるように思えるのである。

 ところが賢治は謄写版による第二集を出版しなかった。森荘已池氏が「詩集を作るために買った新しい謄写版を、無産政党の支部に、金二十円を添えて寄贈したためであった」と書いているように(9)、昭和三年の二月頃に、賢治が労農党稗和支部に謄写版を寄贈したことが原因であると思われる。

 しかし第二集出版の話はすぐ再浮上する。入沢康夫氏は、森氏の言を受けて、同年の四月に賢治が藤原嘉藤治と帰郷中の菊池武雄に会った際、「二月に謄写版を寄附してしまったことを知った二人の友人が、では第二詩集の出版は、こちらで考えてやるから、ぜひまとめろ」とでも言って、短歌雑誌『ぬはり』社の菊池知勇を紹介したのではないかと推定している。そして賢治はその初夏に第二集の序文を書いたのではないかと言う(10)。

 それでは賢治は再び活字印刷に接近したのかというと、一概にそうとも断言できない。なぜなら賢治は自分から活字印刷による出版計画を言い出したわけではないからである。序文にある「友人藤原嘉藤治/菊池武雄などの勧めるまゝに/この一巻をもいちどみなさまのお目通りまで捧げます」という言葉も、どこか言い訳がましく、友人の好意を断りきれないから出す、というふうに読めないだろうか。

 そもそもこの序文は晴れて自著を公刊するにしては、あまりにも消極的な言葉が目立つのである。「わたくしの敬愛するパトロン諸氏は/手紙や雑誌をお送りくだされたり/何かにいろいろお書きくださることは(略)何とか願い下げいたしたいと存じます」と言ってみたり、「わたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は/同人になれと云ったり/原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり/わたくしを苦しませないやうおねがひしたいと存じます」といった言葉には、賢治が表舞台に立つことをなんとか避けようとしているかのように読めるのである。また「どこまでも孤独を愛し/熱く湿った感情を嫌」うために、「おれたちは大いにやらう約束しようなどといふこと」を忌避するというのも、何とも後ろ向きの言葉であるように感じられないだろうか。ここにはかつて「歴史や宗教の位置を全く変換しやう」と書いた時のような気概はどこにも見当たらず、もし出版されてこの序文を読む人がいても、「それほど一人でいたいなら、本など出さなければいいのに」と思ったに違いない。

 結局この活字印刷の話も出版条件で折り合いがつかず、計画は立ち消えとなる。しかし謄写版を寄附したこと自体も、賢治自身の判断によるのだろうから、第二集が世に出なかったのは、つまるところ賢治の出版に対する意欲が弱くなっていたからだと言ってよいだろう。

 ただこの後も賢治がさまざまな雑誌にコンスタントに作品を発表し続けていることは知られている通りだし、『注文の多い料理店』の挿絵を担当した菊池武雄に、社交辞令なのかもしれないが、「この前より美しいいゝ本をつくりあげる希望をば捨て兼ねて居ります。(昭和八年一月七日)」と書いたりもしている。また臨終の前夜、弟の清六氏に向かって「この原稿はみなおまえにやるから、若し小さな本屋からでも出し度いところがあったら発表してもいい(11)」と言ったことなど(しかし父には、「それらは、みんな私の迷いの跡だんすじゃ。どうなったって、かまわないんすじゃ」と言ったらしい(12))、なかなか簡単に結論を導き出すことはできない。しかし清六氏に向かっても「小さな本屋」に限定しているあたり、マイナー出版に対するこだわりは、最後まで貫かれたように思えるのである。

 

   Ⅲ 後期賢治を「読む」ために

 プルーストは「サント・ブーヴに反駁する」の中に、このようなことを書いている。或る時、旅の途中の列車の窓から見える風景を、そのまま書きつけようとペンを走らせた。しかし結局その日の記憶を、その一日それ自体として思い出すことはできなかった。ところがある日、皿の上に匙を落したら、その瞬間、旅の一日の記憶がよみがえった。匙の音が転轍手が列車の車輪をたたく時の槌の音と同じものを再現したからである。

プルーストが列車から見える風景を「そのまま」書き付けようとしたことと、賢治の心象スケッチの試みが、極めて似ていることについて、異論はないだろう。プルーストはこの後、文字を書くこと・読むことの限界を知り、音の可能性に目を向けるようになっていったのだが、賢治の方はどうだろう。やはり賢治も、プルーストと同じように、自分の書いた原稿を読み直すより、音の方が「あの時」をありありと再現してくれることに気付いたのではないだろうか。

 もとより「音楽を聴くというと宮沢君は、すぐに音を感じる。たとえば、Aの音はなんだとか、Dの音はなんだとか、よくやってました。そして景色を想い浮かべるわけです(13)」という共感覚的な資質を持った賢治が、こうした聴覚の可能性に無頓着であったとは考えにくい。また彼が、さまざまな機会に自作を朗読をし、あるいはオルガンやセロを演奏したり、歌曲を作ったり、音楽の得意だった昔の教え子に向かって「鉛筆と手帖を手にして(略)ある日は石灰岩の谷をのぼってぜんまいの芽のほごれるのを音で書く(昭和七年三月十二日・沢里武治宛書簡)」ことを勧めたりしていることも、賢治が聴覚の可能性に対して、期待を持っていたという証拠となるはずである。

 今まで、声→手書き文字→活字印刷というメディアの進化の歴史を、賢治は逆に溯って、活字印刷よりも、著者の人となりを彷彿させる謄写版印刷や小さな本の方に関心を移していった可能性について考察してきたが、賢治におけるメディア進化史の遡行は、さらに「声」に着目する段階にまで達していたのではないだろうか(14)。

 アフリカの無文字社会を研究していたカロザーズは、

ことばが記述されるとき、いうまでもなく視覚世界の一部となる。視覚世界を構成するほとんどの要素とひとしく、書かれたことばは静的な事物となり、聴覚世界一般、なかんずく話された語に特徴的であったあの力強さ、ダイナミズムを失ってしまう。書き言葉は、聴かれたことばがもつ聴き手への直接の呼び掛けという個人的な要素の多くを失ってしまう。見られた言葉はそれを読む自分に対して書かれたものではない。(略)ことばは視られる存在となることによって視る者に対しどちらかというと冷淡な世界の側へと加わるのであり、その世界はそれまでのことばがもっていた呪術的な魔力が抽象化によってすっかり抜き取られてしまった世界なのだ(15)。

と指摘するが、賢治は無文字時代にあったこの声のコミュニケーションを意識的に復活させようとしているかにも思えるのである。

 後期の賢治作品は、詩でも童話でも、以前の高踏的で難解なものが少なくなり、日常レベルのわかりやすい言葉で書かれるようになっている。そうして「農民芸術概論」のようなスローガン的な文や、中村稔氏によって批判された「雨ニモマケズ」の対句表現に代表されるような、きまり文句的な表現も綴られるようになってくる(16)。どちらも「作品」と呼ぶにはふさわしくないかもしれないが、こういったところに賢治の新しい表現戦略を見ることはできないだろうか。

 「農民芸術概論」のスローガンとは、農民たちが何度も繰り返して唱えるうちに、誇りをもって生きる気力を湧き立たせるための言葉であり、「雨ニモマケズ」は、病床の賢治が末尾に書き添えられた「南無妙法蓮華経」と共に誦する(呪する)ことによって、自分をはげます言葉だったのではないだろうか。

 カロザーズは、文字が使用されるようになって初めて「ことばによる思考を行動から切り離すことが可能であり、またことばというものは直ちに外界での行動となって現われるほど効果的でもないし、また効果的でもありえず、発話者の内部に閉じ込めておけるものであるという考え」が生まれたのだ、とも指摘する(15)。無文字社会とは、嘘をつけない社会、嘘をつけばたちどころに嘘が誠となってしまう社会なのである。つまりそこは「雨」と言えば雨が降り始め、「風」と言えば風が吹き始めるような、言霊思想が生きている社会なのである。

 人はなぜスローガンを連呼するのか、またなぜ題目を唱え、詩を朗読するのか。その淵源には言霊思想があったのではないだろうか。後期の賢治作品も、同じようにこうした声の持つ力に依存するところが大きかったように思われるのである。

 後期の賢治作品と言えば、中村稔氏によって病床の賢治の手すさびだとされた「文語詩」が思い浮かぶ。文語詩は、確かに心象スケッチを読んできた者の目には物足りなく思われないでもない代物である。しかしそれは、詩とは活字で書かれたもの、少なくとも文字で表記されているもの、という近代的常識に慣れてしまった者に特有の偏見ではないだろうか。これらがもともと音読すべきものとして書かれていたのだとすると、また新たな視点から賢治を見つめなおす必要が出てくると思われる。

 そもそもなぜそれが「文語定型詩」である必要があったかと言えば、古代文学史を紐解けばわかるように、それが覚えやすく、しかも音読しやすい形式であったからではないのだろうか。

 賢治作品の公演で世界中を駆け回っている林洋子氏は、「文語詩をやってみたい」と筆者に語ってくれたことがある。なぜよりによってあのような渋いものを、と筆者も初めは真意を捉えかねたが、今にして思えば、朗読で文語詩を読む氏には、目で読んでいるにすぎない筆者とは違った「何か」を感じていたとしても不思議はないのである。

 賢治が初めて文語詩を載せた時、『女性岩手(昭和七年九月)』に「花巻町 I子」なる人のこんな批評が載り、賢治は気をよくしたようである(17)。

 宮沢賢治先生が多分病床からの御寄稿と思ひますが、「民間薬」「選挙」の二篇、まことに先生の長詩の大成を思はせるものがあります。はじめて発表された「春と修羅」時代には、私共いかにその一々を繰りかへしても、先生の作意と情緒とをつかむことが出来ないで、たゞその中の「無声慟哭」や「獅子踊」に琴線の響を感じ得たにすぎませんでしたが、その後十年、すつかり洗練され切つたこの二篇を口誦して見るとき、この田園詩の物語る世界が、空間に再現されるばかりでなく、其の発声さへもがはつきりきゝ取れる感じがいたします。一二誤植と思はれるふしも見えますが、若しあのまゝでいゝのなれば、また百回の吟誦をくりかへして見ませう。

幾度も作品を口誦した末、その「世界」が完全なまでに空間に再現され、さらに百回の吟誦をくりかえしたいという…… これが賢治にとって願ってもない賛辞に受け取られたのは当然だろう。

 病床の彼が「なっても(何もかも)駄目でも、これがあるもや」と言うくらい文語詩を大切にしていたという証言を、妹の宮沢クニ氏は残してくれているが、氏はまた賢治の枕許に行くと、「「聞いて、思い浮かぶ状景を言ってくれ。」といって、文語詩を一篇一篇朗読してくれました。朗読は、目に見えるような感じに読んでくれました。」とも語っている(18)。これも「声」が喚起してくれるものに、賢治が関心をよせていたことを示すエピソードではないだろうか。

 職業作家でない賢治が、どうして「書く」ことだけに縛られる必要があっただろう。高橋世織氏は「賢治のようなメディア意識旺盛な表現者は、音声や映像を封印し、排除・抑圧してきた文字中心主義の書物メディアの特性に目覚め、その限界にまで機能を拡張し、ひいては映像メディアを越えゆく探求さえ試みたのだ」と指摘するが、声の力を重視しはじめていた賢治の後期作品に、これは必ずしもあてはまらないように思われる。むしろ「賢治テクストにおける<音声(おんじょう)>もまた、映像世界を強く換起させる」として、「銀河鉄道の夜」で「「銀河ステーション」という「ふしぎな声」に導かれるようにして異世界が現出する。音連(おとづ)れる、というようにして音声が異世界を先立たせるわけである」と指摘しているように(19)、文字以外の情報が人間に及ぼす影響について、賢治がいかに深く考えていたかの方をまず重視するべきだったのではないだろうか。

 もちろん無限の可能性を秘めているのは音だけではない。『失われた時を求めて』の中でプルーストが書いているように、失われた「あの時」を甦らせてくれたのは、石に躓いた経験(触覚・痛覚・平衡感覚……)であり、またマドレーヌを浸した紅茶を飲んだ経験(味覚・嗅覚・触覚……)であったのである。

 賢治は学校劇や農村劇に力を注いだ(時代的に自由にできたとは言えないが)のをはじめとして、詩を書くためには体にリズムが必要だと言っては、月夜にただひとり無茶苦茶な踊りをしてみたり、さらには感極まって松の木に登って「ホウホウ」と叫んでみたり…… と、あらゆる感覚を動員して「世界」を感じたばかりでなく、あらゆる感覚を動員して「世界」を表現しようとした人だったのである。賢治は視覚に対する聴覚の復権を目指した人ではなく、共通感覚の復権をめざした人なのだから……

 思えば賢治を「読む」我々も、いわゆる「読解」にばかり時間を費やしているわけにはいかないだろう。今、賢治を「読む」ためには、共通感覚を研ぎ澄まして朗読し、又はそれに耳を傾け、更には演じたり、歌ったり、踊ったり…… して初めて感じられる「世界の手ざわり」に、直に向きあうことを求められているのではないだろうか。

 

注)

1 賢治の童話には、例えば「鹿踊りのはじまり」のように、「わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人の言葉にきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りのほんたうの精神を語りました」に始まり、「それから、さうさう、苔の野原の夕陽の中で、わたくしはこのはなしをすきとほつた秋の風から聞いたのです」に終るようなものがいくつかあるが、これは賢治がまさしく自然の声を聞き、それを再録したことの痕跡であると思われる。

2 木村敏 『自己・あいだ・時間』(弘文堂・昭和五十六年)

3 賢治は『注文の多い料理店』の「広告ちらし」で、童話のことも「心象スケッチ」と呼んでいる。このことから、『春と修羅』と『注文の多い料理店』は形式が違うだけで、本質的にはどちらも「心象スケッチ」であったとしてよいと思われる。

4 共通感覚の鋭敏な賢治でも離人状態に陥ることがあったのは、いくつかの書簡などから知られる。例えば大正十年八月十一日の関徳弥宛書簡には「私の感情があまり冬のやうな工合で、燃えるやうな生理的の衝動なんか感じないやうに思はれた」とある。

5 中村雄二郎 『共通感覚論』(岩波書店・昭和五十四年)

6 大正十年、賢治は家出上京中に国柱会講師・高知尾智耀に法華文学の執筆を奨められ(と、少なくとも賢治は思っていた)、一月に三千枚という驚異的な勢いで創作をしたと言われているが、彼の作風に、軌道修正はほとんどなかったようである。これは賢治が、自分の感じた「世界」の美しさや深遠さ、恐ろしさ…… を書くことと、「世界」の真実の姿を説いた法華経のすばらしさを書くことを、同じだと考えていたからだと思われる。宇宙全体を一つの生命体であると考える法華経の「世界」観は、万物に生命感を感じるという賢治の共通感覚的「世界」観に通じるところがあり、それゆえに賢治は、自然賛美と法華経賛美を同時に成し遂げることができたばかりでなく、抹香臭い説教に陥ることなく「法華文学」を展開することができたと考えられるのである。

7 ウォルター・オング 『ラメの方法と商業精神』(マーシャル・マクルーハン・『グーテンベルクの銀河系』・みすず書房・昭和六十三年の引用より)

8 ウォルター・オング 『声の文化と文字の文化』(藤原書店・平成三年)

9 森荘已池 「『春と修羅』私観」(『宮沢賢治研究叢書3 「春と修羅」研究Ⅰ』・学芸書林・昭和五十年)

10 入沢康夫 「解説」(『新修 宮沢賢治全集 第三巻』・筑摩書房・昭和五十四年)

11 宮沢清六 『兄のトランク』(ちくま文庫・平成三年)

12 森荘已池 『宮沢賢治の肖像』(津軽書房・昭和四十九年)

13 藤原嘉藤治・井上敏夫「音楽観・人生観をめぐって」(『宮沢賢治5』・洋々社・昭和六十年四月)

14 ただ賢治はメディア史を遡行しただけではない。「二次的な声の文化(オング)」であるエレクトロニクスにも関心を持っていたことが知られている。(拙論・「電子メディアと宮沢賢治」・『神戸山手セミナーブック1』・平成九年十二月 参照)

15 J・C・カロザーズ「文化、精神医学および記述文字」(マーシャル・マクルーハン・『グーテンベルクの銀河系』・みすず書房・昭和六十三年の引用より)

16 中村稔 『宮沢賢治』(筑摩叢書・昭和四十七年)

17 昭和七年十月(?)の藤原嘉藤治宛書簡下書きに「同封三篇あげて見ます。口語の方をと思ってゐましたが、雑誌の批評を見て考へ直して定形のにしました。」とあることによる。(杉浦静・『宮沢賢治 明滅する春と修羅』・蒼丘書林・平成五年 参照)

18 宮沢クニ 『校本 宮沢賢治全集 第五巻 月報』・筑摩書房・昭和四十九年)

19 高橋世織 「映像記号論からみた《心象スケッチ》」・『生誕百年記念 宮沢賢治の世界展 図録』・朝日新聞社文化企画局東京企画部・平成七年)