いのちの代償 ――宮沢賢治「山男の四月」論――

信時 哲郎



 「山男の四月(大正11年4月7日)」は、町に出た山男があやしい支那人に六神丸という薬にさせられてしまう夢を見るという物語である。しかし作品への評価ということになると天沢退二郎・入沢康夫の両氏でさえ、展開に無理があると辛い点をつけており(1)、本作品を扱った論文の数が「銀河鉄道の夜」や「風の又三郎」の数十分の一にも満たないという現状からも、その不人気のほどは明らかである。では今回なぜこうした作品を扱うことにしたのか。それには少しく説明の要があるかもしれない。

 まず第一に大正13年12月に発行された童話集『注文の多い料理店』が、当初は「山男の四月」という標題で出版が予定されていたことがわかっており、賢治にとって特別の位置を占める作品であったと予想されること。第二に作品の配列を見ても、一時は冒頭に置かれる構想が立てられていたことがわかっており(その時の標題は二つとも『注文の多い料理店』)、賢治がかなり重要視したことが予想できること。第三には「山男の四月」に付された日付が、心象スケッチ集『春と修羅』(大正13年4月発行)の標題作「春と修羅」の制作日の前日になっていること。これらのことから「山男の四月」を、ただ不出来だと言っているだけではならないと思われる。

 さて「つまらなさ」がしばしば指摘されながらも、上記のような理由により先行研究も皆無というわけではない。「山男もの」と称される「紫紺染について」・「祭りの晩」などの作品とセットで扱われ、柳田国男の『遠野物語』や佐々木喜善のエッセイと比較されながら、賢治の造型した単純正直な山男がいかに都会文明から疎外されているか、また都会文明批判が込められているか、といったことが論じられてきた。ただ主人公が「山男」に設定されていることが重視されすぎるのか、それ以外の視点から読まれたことはあまりないように思われる。そこで本論では小道具である「六神丸」から考えてみることにしたい。

 唐突の印象は免れがたいが、ここでまず葉山嘉樹の「淫売婦」から話を始めることにする。

 葉山嘉樹は大正14年11月『文芸戦線』に、名古屋・千種監獄の獄中で執筆した「淫売婦」を発表し、新進のプロレタリア文学の作家としてのデビューを果たした。これだけではおよそ賢治とのかかわりを引き出すのは難しいが、ただこのデビュー作では「六神丸」が効果的に用いられており、賢治と同時代に生きた作家として、参考になる点が多いのである(2)

 「淫売婦」には、ポン引きらしきものにつかまった主人公の民平が、横浜の中華街近くの倉庫に連れて行かれる場面があるのだが、そこで

この歪んだ階段を昇ると、倉庫の中へ入る。入つたが最後どうしてもでられないやうな装置になってゐて、そして、そこは、支那を本場とする六神丸の製造工場になつてゐる。てつきり私は六神丸の原料としてそこで生き肝を取られるんだ。

というふうにして六神丸が登場する。もちろん賢治が大正14年発表のこの小説を「山男の四月」を書く以前に読んだ可能性は、時間的に言ってありえない。しかしこうした噂が当時かなり一般的だったことは葉山のこの作品にも明らかである。益田勝実氏も、

六神丸は、万病にきく著効薬として、日本人も重用したが、あまり利き目があるので、「あれは人間の肝で造ったものだ」「日本の子どもをさらっていって、鴨緑江の向こうで肝を抜き取って造っている」というような噂が流れていた。子どもたちに親が常々口をすっぱくして言い聞かせていたのは、「子盗りについて行くんじゃない」ということだった。子どものわたくしたちの心にも、子盗りの恐怖は深く染みついていたから、六神丸売りを見かけると、親の背後に身を隠したものだった。

ということを実体験として書いている(3)。もちろんこれは日清戦争での敗北以降に広まった日本人の「支那」に対する差別感情の延長上にあり、今日の目から見ると人種的偏見以外のなにものでもない。つまり多くの賢治論者によって、町の人から疎外されている山男に同情的だったとされている賢治も、こと「支那人」となると、彼らに対する町の人々の差別感情に同調していたということになるだろう。

 賢治には「十月の末(大正10か11年)」という小品があり(4)、その下書き部分にも、子供たちのやりとりの中に「支那人支那人。どこさ行ぐ。肝取りが。」という部分があり、いくらそれが「村童スケッチ」であったにせよ、賢治の支那人に対する眼は、当時の偏見を乗り越えるだけのものを持っていなかった、と言われても仕方がないということになる。

 ただ「十月の末」の最終形態になると、この「肝取り」の部分は削除され、賢治が支那人への偏見の描写を嫌ったのでは、と考えられないこともない。しかしもしそうだとすると、賢治が「十月の末」と制作時期も近い「山男の四月」にだけ、なぜ「支那人が人間を六神丸にする」という偏見に満ちたモチーフを使ったのか、ということが改めて問題として再浮上してくることになる。「山男の四月」には初期形が残っているが、こちらの方では山男は「支那反物」にさせられることになっているから、最終形で六神丸に書き改めたことになり、「山男の四月」の最終形における六神丸の登場はかなり積極的・意図的なものであったということになるのである。

 さて「淫売婦」の方の主人公である民平は

起死回生の霊薬なる六神丸が、その製造の当初に於て、その存在の最大にして且つ、唯一の理由なる生命の回復、或は持続を、平然と裏切つて、却つて之を殺戮することによつてのみ成り立ち得る。

とするならば、「六神丸それ自体は一体何に似てるんだ」そして「何のためにそれが必要なんだ」と自問し、その結果

それは恰も今の社会組織そつくりぢやないか。ブルジョアの生きるために、プロレタリアの生命の奪はれることが必要なのとすつかり同じぢやないか。

と、六神丸がプロレタリアとブルジョアの関係の隠喩であることに思い至る。

 ところで葉山嘉樹と同じ時代を生きた宮沢賢治が、民平のように、六神丸に「一つの生命の存続のために、一つの生命の犠牲が必要になる」という矛盾を感じたことはなかっただろうか。もし賢治も葉山と同じくそこに矛盾を感じたとするなら、彼はそこに何を見出しただろうか。それは「プロレタリアの運命」ではなく、私には「食物連鎖」の隠喩だったように思えるのである。

 賢治には「よだかの星(大正10年頃)」や「二十六夜(大正12年頃)」、「ビヂテリアン大祭(草稿は大正12年頃)」など肉食への忌避を扱った作品も数多く、大正7年の春から自分でも菜食を始めた(大正7年5月19日・保阪嘉内宛書簡)とのことであるから、この想像はまんざら突飛なものではないだろう(5)

 菜食主義者と肉食者のディベートを扱った「ビヂテリアン大祭」の中で賢治は、おそらくは彼本人の思想を語っていると思われる語り手の「私」にこう言わせている。

もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていゝ、そのかはりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとかう云ふのです。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないやうにしなければならない

人間が他の生き物に食べられることは、今日ではたしかに<実に実に少い>ので、自分が食べられるという実感をもちにくい。賢治は農学校に飼われている豚が屠殺されるまでの意識を辿った[フランドン農学校の豚(大正11年冬から12年夏)]という作品を書いているが、人間が人間に食べられる話はさすがに書いていない。そうすると迷信ではあるにしても、六神丸という小道具は、こうした非常事態を書く上ではうってつけであったということにならないだろうか。もしそうだとすると「山男が支那反物になる話」よりも、噂に従って「山男が六神丸になる話」にした方が、「人間が人間を食う」感じがより直接的に伝わると考えたのではなかっただろうか。

 さてこうして考えてくると「山男の四月」が、なぜ山男による狩猟の場面、すなわち

 山男は、金いろの眼を皿のやうにし、せなかをかがめて、にしね山のひのき林のなかを、兎をねらつてあるいてゐました。

 ところが、兎はとれないで、山鳥がとれたのです。

 それは山鳥が、びっくりして飛びあがるとこへ、山男が両手をちぢめて、鉄砲だまのやうにからだを投げつけたものですから、山鳥ははんぶん潰れてしまひました。

 山男は顔をまつ赤にし、大きな口をにやにやまげてよろこんで、そのぐつたり首を垂れた山鳥を、ぶらぶら振りまはしながら森からでてきました。

と、書き始められているのも納得がいく。つまり「山男の四月」は冒頭で、物語の背景となる「お互いがお互いを殺し合い食べ合って存続する生物の世界のありさま」が描かれているということになるのである。

六神丸や作品の書き出しの他にも「山男の四月」には多くの「食物」に関する記述が登場する。それは食物連鎖をテーマとした作品である以上当然のことかもしれないが、本論では従来あまり言及されてこなかった「食物」という視点を中心にして読み進めていくことにしたい。

 山男は獲物を捕まえると、仰向けになって空を眺める。ここで<飴といふものはうまいものだ>という呑気な内言がある。山鳥をつかまえてにやにやしていた、という描写と同じく、ここでも山男の単純素朴さが描かれているということになるのだが、それは同時にいかに単純素朴な存在であっても、生きものにとって「食物」というものが意識に占める割合はきわめて大きいということを示唆した部分だ、ということを念頭におく必要があるだろう。

 それから山男は枯れ芝の上で眠る場面となる。ここで彼の孤独を表すとしてよく引用される<おれはまもなく町へ行く。町へはいつて行くとすれば、化けないとなぐり殺される>という内言が出てくる。なぜ<殴り殺される>のかといえば、山男が山鳥を圧し殺したのと同じように、慣れない場所ではついうっかり他の生き物の餌食にならないともかぎらないということを、山で生まれ育った彼は直感的に感じているからである。狩猟のように、ゲームとして他の生物の命をとるなどという悪習に染まっていない山男には、「殺す」とは食べることであり、「殺される」とは食べられることである。真剣な食物連鎖の世界である山の中で生きてきた彼にとって、食べることは最大の問題であったが、一方的に食べるばかりではなく、自分が食べられる可能性についてもしっかり意識されていたのである(6)。いずれにせよ、ここは街における孤独感よりも、「食物」のイメージが強調された部分だということができるだろう。

 さて町に入ると、そこには魚屋があって、塩鮭・鰯・章魚といった魚介類が並んでおり、山男はことに章魚が気に入ったようで、<あのいぼのある赤い脚のまがりぐあひは、ほんたうにりつぱだ>、<かういふものが、海の底の青い暗いところを、大きく眼をあいてはつてゐるのはじつさいえらい>と感心する(7)。これも山男の単純素朴さを表すだけでなく、生き物にとって「食物」がいかに根源的な問題であるかを想起させる場面だとすべきだろう。

 そこに支那人が現れ、山男の肩をたたく。支那人は支那反物と六神丸を買うよう薦めるが、<山男はどうもその支那人のぐちやぐちやした赤い眼が、とかげのやうでへんに恐くてしかたありませんでした>とか、<おやおや、あの手の指はずゐぶん細いぞ爪もあんまり尖つてゐるしいよいよこわい>と考える。つまり山男は支那人の容姿から爬虫類めいたものを感じとり、自分が「食べられる」気がして恐がっているわけである。六神丸にされてしまってから、<やられた、畜生、たうたうやられた、さつきからあんまり爪が尖つてあやしいと思つてゐた>と悔しがっているのだが、この表現からも山男が相手の「爪が尖っている」ことの当然の帰結として「やられた」と考えていることがわかる。

 ところでここで山男が支那人を恨むような言葉を吐いていないのは注意すべき点であろう。むしろ彼は肉食動物の鋭い牙や爪といった危険信号に対して充分な警戒を怠った自分の非を悔いている感じがある。詳しくは後述するが、ここでは「自らが他の動物を食うことを正当化する限り、自分が食われることも認めねばならない」といった思想が窺えるように思える。

 童話集『注文の多い料理店』には賢治が書いたと思われる「広告ちらし」があるが、そこに全9編の収録作品について簡単なコメントがある。「山男の四月」の項は

四月のかれ草の中にねころんだ山男の夢です。

烏の北斗七星といつしよに、一つの小さなこゝろの種子を有ちます。

と書かれている。「こゝろの種子」とは何かというと、山男が自分が騙されているのも忘れて支那人に同情するシーンのことを指していると思われる。すなわち

 山男はさつきから、支那人がむやみにしやくにさわつてゐましたので、このときはもう一ぺんにかつとしてしまひました。

「何だと。何をぬかしやがるんだ。どろぼうめ。きさまが町へはいつたら、おれはすぐ、この支那人はあやしいやつだとどなつてやる。さあどうだ。」

 支那人は、外でしんとしてしまひました。じつにしばらくの間、しいんとしてゐました。山男はこれは支那人が、両手を胸で重ねてないてゐるのかなとおもひました。さうしてみると、いままで峠や林のなかで、荷物をおろしてなにかひどく考へ込んでゐたやうな支那人は、みんなこんなことを誰かに云はれたのだなと考へました。山男はもうすつかりかあいさうになつて、いまのはうそだよと云はうとしてゐましたら、外の支那人があわれなしわがれた声で言ひました。「それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する、それ、あまり同情ない。」山男はもう支那人が、あんまり気の毒になつてしまつて、おれのからだなどは、支那人が六十銭まうけて宿屋に行つて、鰯の頭や菜つ葉汁をたべるかはりにくれてやらうとおもひながら答へました。

「その人のためなら自分のからだなどどうなってもかまわない」というのは賢治童話ではおなじみの言葉である。「広告ちらし」の中で、<烏の北斗七星といつしよに>と書かれている「烏の北斗七星」(烏と山烏の戦争を扱った物語)にも<どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。>という言葉があるから、そこを「こゝろの種子」としていたとしてほぼ間違いはないだろう。

 ただ「山男の四月」は、「烏の北斗七星」を初めとする「自分のからだなどどうなってもかまわない」という言葉の出てくる作品群と比べて突出している点がある。それは山男が六神丸として売られ、文字どおり「食べられる」ことによって、支那人が「おまんま」を食べることができるというところ、すなわち<宿屋に行つて、鰯の頭や菜つ葉汁をたべる>ことができると書かれているところである。つまり山男は、比喩的に、ではなく、本当に支那人に「食べられる」ことを肯っているところが他の作品と違うのである。

 生き物の世界を見回してみると肉食はあたりまえのこととして行われている。そして畜生界よりは仏界に近いとされる人間界でも、なかなかそれを否定しきれていない。しかしだからと言って肉食を肯定してしまっては「すべての生き物が兄弟だ」という賢治の信仰と離れてしまう。そこで「ビヂテリアン大祭」で出した結論が、<もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていゝ、そのかはりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けない>というものであったのである。

 山男は山鳥を殺しておいて、にやにやしているような肉食の人物である。しかし自分の命が他者の生存のために必要だとされていることを敏感に感じ取ると、自分は食べられてやらなければならないという肉食者としてのモラルを守ろうとするのである。

 「なめとこ山の熊(昭和2年頃)」の主人公、熊撃ちの小十郎は、畑も林も持っておらず、そこで仕方なく罪深い殺生で生業をたてている人物として設定されている。ある時、小十郎が熊を撃とうと銃を構えると、熊に「おまへは何がほしくておれを殺すんだ」と詰問される。小十郎は

「あゝ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高売れると云ふのではないしほんたうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを云はれるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食ってゐてそれで死ぬならおれも死んでもいゝやうな気がするよ。」

と答える。ここでは他の生物を殺す立場の者が、その矛盾を突きつけられると、今までの立場を全く反転させて、自ら進んで死を引き受けようとしている。つまり「自分のからだなどどうなってもかまわない」とばかりに、自分に対する執着を潔すぎるくらいに振り捨てようとしているのである。

 さて、小十郎を詰問した熊の方も「おれも死ぬのはもうかまわないやうなもんだけれども少しし残した仕事もあるしたゞ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまへの家の前でちゃんと死んでゐてやるから。」と頼み、小十郎はそれを聞き入れる。するとその熊はきっかり二年後に、小十郎の家の前で死ぬという事態に至るのである。

 物語の終わり近くになって、小十郎は熊に殺されてしまうが、最後まで両者は敵対しあう関係としては描かれていない。むしろお互いの「命」を提供しあいながら、なんとか共に生きていこう、と助け合う関係として、つまり彼らは「殺し合う関係」としてではなく、「生かし合う関係」として描かれていると言うことができる。

 このように賢治は食物連鎖を、ただ「悪」と決めつけているわけではない。食物連鎖を大筋で認めざるをえない地点から出発して、なんとか両者の折り合いをつけようと、その基準=倫理を追求しようとしていたのである。そしてそれが「肉食者としてのモラル」とここで呼んでいるところのものである。

 それよりも賢治が許せなかったのは、熊の皮を安値で買い叩くことにより、結果的に熊と小十郎の両者の命を搾取している荒物屋の旦那の方である。彼は食物連鎖の頂点に立ち、そして誰から食べられることもない。賢治はこの場面の終わりに<こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなって行く。僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらも見たくないやうなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。>と、物語からは明らかに逸脱した言葉を書き記しているが、ここに命を金でやり取りする商人への批判を見ることができる(8)

 さて「山男の四月」でも、山男は「肉食者としてのモラル」に従って、自分の命を提供しようとするが、物語では支那人が山男を食べるという結末にはなっていない。

 行李の中で山男は、同じ境遇にある男に「ここに居るのはおまへだけかい」と尋ねると、男は「いゝや、まだたくさんゐる。みんな泣いてばかりゐる」と答える。するとついさっきまで支那人のために我が身を捨てる決意をしたはずの山男が「そいつはかあいさうだ。陳はわるいやつだ。なんとかおれたちは、もいちどもとの形にならないだらうか」と、いままでとは全く逆のことを言う。それはそれで人助けには違いないが、この人助けは結果的に自分の命を保持することにもなるから、せっかくの「こゝろの種子」も確実に踏みにじられていることになる。

 山男は教えられたとおり、すぐ横にあった丸薬を飲んでもとどおりの姿になる。しかしもともと大きさが変わっていない支那人の方もあわてて丸薬を飲みこんでしまうので、「めらあつと」大きくなって、山男につかみ掛かろうとする。そこで山男は目を覚ますのである。

 山男はこうして自分の命を守り、その結果、支那人を「おまんまたべない」境遇に突き落とすのであるから、他者に食べられる寸前まで行きながら、結局相手を殺して自分が生きる道を選んだことになる。つまり山男は心の中の「仏種」を生かすことが出来ず、支那人と同じように「修羅」に身を落とすことになるわけである。

 ではなぜ山男はせっかくの「こゝろの種子」を持ちながらそれを生かさず、修羅となってまで自己の生命に執着することになるのだろうか。それは支那人が真剣な食物連鎖の世界から外れて生きていたからである。支那人は食物を自分の命を賭してまで手に入れようとしておらず、ただ詐術によって得た「金」によって手に入れようとしているのである。

 「なめとこ山の熊」でも荒物屋の旦那は熊と小十郎が真剣な命のやり取りをしている脇で、命を懸けるということもせず、ただ「金」の力によって両者の命を搾取していたし、同じことは初期の童話である「注文の多い料理店」にも窺える。すなわち都会から来た二人のハンターは狩猟を娯楽と考え、猟犬を失っても<二千四百円の損害だ><二千八百円の損害だ>としか感じず、自分が食べられそうになるという経験をしながらも、最後には山鳥を<十円分>買って帰る、という人物であった。これらの作品に通底しているのは、命のやり取りの場に「金」を持ち込むことへの嫌悪である。他の命を取るということは、自分の「命」を代償にしてはじめて正当化されるのであり、どれだけ「金」を積んだところで解決のつく問題ではないという確固たる立場がここでは表明されているのである。

 さて、「山男の四月」の末尾はこうである。

 山男はしばらくぼんやりして、投げ出してある山鳥のきらきらする羽をみたり、六神丸の紙箱を水につけてもむことなどを考へてゐましたがいきなり大きなあくびをひとつして言ひました。

「えゝ、畜生、夢のなかのこつた。陳も六神丸もどうにでもなれ。」

 それからあくびをもひとつしました。

 このことさら呑気な結末は、生物にとって極めて深刻な問題を突きつけられたはずの山男が、この問題について「問題」であるとさえ認識していなかったことを示している。もちろんこんなことでは山男はいつまでも修羅のままで、毎日兎をとったり、山鳥をとったりを続けるのは確実であり、賢治が願っていたような<人間の世界の修羅の成仏(大正9年6~7月・保阪嘉内宛書簡)>ははるかに遠いと言わざるを得ない。しかし肉を食べるには金を払えばいい、という程度の認識しかない都会人より、他の動物をとって食べる者としての最低限のモラルを知っているこの野生児の方が、どれだけ「まこと」を体現しているか、示したかったのではないだろうか。

 

 ところで国柱会の主催者・田中智学は、『日本國體の研究』の中でこう言っている。

 「食」を基調とした貪欲争奪は一般的であると共に徹底的である、いよいよ「食」を得られないとすると、命がなくなるから、死物狂ひになつて争う様になる、俗に「食ひものゝ意趣は恐ろしい」といふことを言ふが、これは軽いところで言つたのであるが、推し及ぼせば、世界の戦争にまでも及ぶ。

智学は「食」という言葉を、単に「食物」を指すものではなく、貪欲・闘争の象徴として、すなわち修羅の象徴として使っている。そして人生の目的は「食」の追求では決してなく、法華経に示された真理を究める「道」に置くべきだとして、<食下に道なし道下に食あり>と続ける。

 この『日本國體の研究』は大正10年1月1日から国柱会の機関誌『天業民報』に連載されたもので、この年賢治は父親との家業や宗教をめぐる対立が頂点に達し、ついに家出上京をし、下足番でもいいから働かせてほしい、と国柱会に駆け込んでいる。この頃友人の保阪嘉内に<どうか世界の光栄天業民報をばご覧下さい(大正10年2月18日)>と書いて案内書と振替用紙まで同封し、親戚の宮沢友次郎にも<世界の光栄 地球の大燈明台たる天業民報をば ご覧下さい(大正10年2月19日)>という葉書を送っている。そんな賢治であるから連載中の智学の文言を毎日むさぼるようにして読んでいたことは想像に難くない。中でもこの「食」に関しての考え方は、賢治に少なからぬ影響を与えたのではないだろうか。

 賢治は支那人をはじめとする「金まみれ」の都会型の人間よりも、山男を崇高な存在として書こうとしていたと思われるのに、どうして山男に終始「食本位」のままの生き方をさせたのだろうか。私はここに智学と賢治の間に生じた「食意識」についての微妙なズレ、「修羅意識」についての微妙なズレを見るのである。

 智学によると「食」を本位にしない者、つまり「道」に生きる者は、

みづから求めずとも、天地の自然も謹んでこれに食を献ぜねばならぬ、「人が養はねば天が養ふ」とはこれだ

とかなり無責任とも思えるようなことを言っている。智学はここで「不惜身命」を当て嵌めようとしているように思われる。不惜身命というのは、<清新活気の信仰とは何ぞや、『不惜身命の心地』是也、法華経と聖祖とが吾人に命じたる信は即ち是也>というくらいにその重要性が強調されていたもので(9)、具体的には

一たび身を捨てる気になれば、何でもなく出来るのである、彼の泳ぎを習うのに、自分に執して藻掻くと沈むが、自己を空虚にして水に委せれば自然と浮き上がる様なものである、『自ら身命を惜まず』して、一心に仏の力を仰ぐといふことが、やがて自己具有の本仏に同如する唯一つの直路であつて、それがまた極々の捷径である(10)

という浄土真宗の絶対他力に見紛うようなもので、この「自分を殺して仏に身を委ねる」という精神は、賢治の自己犠牲系列の作品にも繋がるように思える。しかし、ことこれを「食物」に当て嵌めて考えてみるとどうなるだろう。

 明治35年、賢治が6歳の時、岩手県は「サムサノナツ」に見舞われ、米の収穫は前年のおよそ3分の1、岩手県内の水田の3分の1は収穫がゼロだったという。従って翌年は飢饉となり、小学校1年生の賢治の目には痩せ細り、元気のない同級生の姿が目に焼き付いたはずである。そして賢治が九歳の時の明治38年にも、「サムサノナツ」は再び訪れ、岩手県の収穫は3年前の凶作時を下回った。さらに賢治17歳の大正2年も大凶作の年となり、岩手の農村はさらに疲弊することになる。賢治が農村の実状を本当に知るようになるのは農学校教員時代、あるいは羅須地人協会時代だと言えようが(最後まで農村の現実とのギャップは埋まらなかったのだが……)、他人の痛みに敏感に反応してしまう賢治が、「食」に困っている岩手の人々――机を並べている友人たちの蒼白い顔、家業の質・古着屋を訪れる困窮者たちの顔――を実際に目にして何も感じなかったはずはない。その苦しさが見えていればこそ、子供たちの「食物」を確保するために自らの命を絶つ「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記(大正11年頃)」の両親のような悲痛な存在を描けたのではなかったろうか。

 幼くして両親を失うといった境遇にはあったものの、日本橋生まれの江戸っ子・智学の言説には、「黙っていても食物は自然に手に入る」とでもいうような食に対する楽観性がなかっただろうか。「食物を作る」苦しさを曲がりなりにも知っていた賢治の目には、「食物を買う」ことしか知らない都会人の言葉は、たとえ敬愛する人のものであったとしても、どこか現実味に欠けるものとして、少なくとも当時の岩手県にはあてはまらないものとして映ったのではないだろうか。書簡にある<食を求めることはいやしいことか、宇宙みな食を求むるときは之は卑しい尊いを超えたことであります。(大正7年6月27日・保阪嘉内宛書簡)>といった言葉は、ただ仏教に関心がある若者、というだけではなかなか出てくるセリフではないのではなかろうか。

 おそらく賢治は「食物」に拘らずには生きていけない人間に、いきなり「不惜身命」を説いてもはじまらないことがわかっていたのだろう。彼は「食物」を得る為の闘いの存在、殺し合いの存在さえも「必要悪」として認めた上で、ただ<もしその一人が自分になった場合>には、不惜身命、すなわち自分の身を捨てて相手に与えなければいけないという「肉食者のモラル」を独自に打ち立てようとしたのではなかったろうか。そしてその理論的成果が「ビヂテリアン大祭」であり、童話に仕立てたものが「山男の四月」だったのではなかっただろうか。

 もしそうだとするならば、智学の影響を受けながらも、自分なりの結論にまで到達したこの記念すべき作品を童話集の標題作にしようというのは、ごく自然なことのように思われる。もちろん結果として標題作になったのは「注文の多い料理店」の方だが、これとても、同じテーマを別の切り口で描いたものであるから、どちらにしても標題に選んだ作品が「食」に関する生物の真剣な闘いを描いているということに変わりはない。

さらに付け加えれば、一見ナンセンス喜劇風の「山男の四月」も、生きていくからには、ものを食べなければならず、人とも争わずにはいられない人間、修羅として生きざるをえない人間が、いかにして心の中の「仏種」を見つめ、育てていくかというテーマ、すなわち天台教学に言う「一念三千」に直結する実に深刻で重要なテーマを含んだ作品であったということは見過ごしてはならないであろう。

 

 そしてこの物語の製作の翌日、賢治は心象スケッチ「春と修羅」の想を得るのである。

  心象のはひいろはがねから

  あけびのつるはくもにからまり

  のばらのやぶや腐植の湿地

  いちめんのいちめんの諂曲模様

  (正午の管楽よりもしげく

   琥珀のかけらがそそぐとき)

  いかりのにがさまた青さ

  四月の気層のひかりの底を

  唾し はぎしりゆききする

  おれはひとりの修羅なのだ

  (風景はなみだにゆすれ)

  砕ける雲の眼路をかぎり

   れいろうの天の海には

    聖玻璃の風が行き交ひ

     ZYPRESSEN春のいちれつ

      くろぐろと光素を吸ひ

       その暗い脚並からは

        天山の雪の稜さへひかるのに

        (かげろふの波と白い偏光)

        まことのことばはうしなはれ

       雲はちぎれてそらをとぶ

      ああかがやきの四月の底を

     はぎしり燃えてゆききする

    おれはひとりの修羅なのだ

        …………

こちらは前日にできた物語とは打って変わって暗く、そして緻密で硬質な印象のものになっている。恩田逸夫氏は、「山男の四月」と「春と修羅」が、<内容上通い合うというわけではない>と言うが(11)、表層的な印象を異にするとは言え、両者は修羅意識という意味で共通性があり、連続した作品と考えてよいのではなかろうか。

「連続」と言えば、童話集に収録された九編の作品のうち最後に成立し、一時は標題作ともなったのが「山男の四月」であり、一方、心象スケッチ初期の代表作で、標題作となったのが「春と修羅」であるから、両著作の時間的な中心、そして思想的な中心も、ともに大正11年の4月7日・8日にあったと言うことができるかもしれない。そしてこれまた想像にすぎないが、萩原昌好氏も言っているように(12)、4月8日が花祭り、つまり釈迦の誕生日であったことも何か関連があったのかもしれない。

 

 

1 天沢退二郎・入沢康夫・林光 「宮澤賢治の童話世界」 『ユリイカ』・昭和52年9月

2 「山男の四月」と「淫売婦」の関係については、朝日カルチャーセンター横浜の「宮沢賢治の童話 夢と直感の言語宇宙(平成5年11月6日)」における小森陽一氏の指摘を参考にしている。

3 益田勝実 「山男の四月 宮沢賢治の表現の特色」 『日本文学誌要』・昭和59年8月

4 賢治作品の制作年次については、主に『宮沢賢治必携』(昭和55年5月・学燈社)による。

5 「ビヂテリアン大祭」を見ても明らかなように、賢治の菜食主義は何がなんでも動物性のものをとらないというようなものではなかった。しかし晩年滋養のためといって内緒で母にコイの生き肝を呑まされると、「生きものの命をとるくらいなら、おれは死んだほうがいい」と、泣きながら清六に訴えたというエピソード(堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』・平成3年1月・中公文庫)などからもわかるように、肉食忌避の態度は生涯貫かれたものであった。

6 高橋康雄氏は、山男が六神丸にされた箇所について、<山男は六神丸になったことによって自分は誰かに呑まれるかもしれないから、もはや「食う」「食われる」の立場をどちら側にも設定せずに、「食われる」こともあると考えている>として、食う者と食われる者との入れ替えがありうることを指摘している。 「山男の四月 弱者の感じる視線の弱さ」 『<注文の多い料理店>伝』・平成8年7月・春秋社

7 賢治の短歌567には「山峡の青きひかりのそが中を章魚の足喰みて行ける旅人」というのがあり、このあたりに山男の原像があるのかもしれない。

8 「山男の四月」と「なめとこ山の熊」では制作年次に開きがありすぎると言われるかもしれないが、両者で共通に追求されている食意識や「自分のからだなどどうなってもかまわない」というモチーフは、前掲の高橋氏も「賢治特有の食物連鎖の骨格は初期作品に芽生えていたことがわかる」と指摘しているように、初期作品から「なめとこ山の熊」、「銀河鉄道の夜」まで生涯にわたって追求されたテーマであり、制作年次を云々する必要は必ずしもないと思われる。

9 田中智学 『宗門之維新(明34年5月)』・『獅子王論叢篇』・昭6年10月

10 田中智学 『日本國體の研究(大10年1月1日より『天業民報』に連載)』・ただし本論中の引用はすべて復刻版(昭和56年8月・真世界社)による。

11 恩田逸夫 「『童話集』作品の制作年次」 『四次元』・昭35・11

12 萩原昌好 「『春と修羅』の主題」 『宮澤賢治「修羅」への旅』・平成6年12月・朝文社

 

本稿は平成8年6月8日の日本近代文学会関西支部の発表に基づいている。発表の場を与えて下さった方々、指導・助言を頂いた方々に御礼申し上げたい。

発表当日、六神丸を下さった元金蘭短期大学助教授・故広瀬朱実先生に、本論をお見せできなかったことは悔やまれる。心よりご冥福を祈りたい。