宮沢賢治とハヴロック・エリス 信時 哲郎 |
宮沢賢治がハヴロック・エリスの著書『性の心理』(Studies in the Psychology of Sex)を読んでいたことは、知人や教え子の証言にあるとおりで、その影響についても小倉豊文(1) や大塚常樹(2)、杉原正子(3)らによって指摘されてきた。しかし生涯を童貞で通したと言われる賢治の意外な一面として紹介される程度で、本格的な影響関係の検討は未だ手付かずの観がある。賢治テクストにおよぼしたエリスの影響については、杉原に論があるが、まず人間・宮沢賢治に、エリスの性に関する著書がどのように影響していたかを見極めるのが先であるように思われる。
教え子の根子吉盛が「翻訳本のふせ字の原文の部分をわざわざ仙台の本屋まで行って見てこられたりしました」(4) と語っていることから、賢治が原著より前に訳本を持っていたことがわかるが、賢治が読んだ本として小倉や佐藤成は(4) 、大正十年刊・冬夏社版の鷲尾浩訳『性の心理(全十巻)』をあげている。大塚、杉原はこれに昭和二~四年に日月社から刊行された増田一朗訳『性の心理 (全二十巻。全十八巻とされているのは誤り。)』を加えている。論者はどちらの本も賢治が手にした可能性は高いと考えているが、ここに大正十年に天祐社より刊行された矢口達訳『性的心理大観 (全二巻)』を付け加えておきたい。この本は国会図書館にも収蔵されていないが、賢治の文学上の後輩である森荘已池が、賢治とエリスの関係について証言を行う際、きまって『性学大系』、『性科学大系』といった言い方をしているので、タイトルの類似性から考えて、賢治がこれを手にしていた可能性は高いと思われる (5)。
賢治がなぜエリスの著作に触れたかについて、森荘已池は
エリスの性学大系というのは、大部なもので、十何巻ぐらいはあったように思います。たぶんイギリスで出来て、間もない本だったと思われますが、イギリス風な、くらい赤茶色のクロース表紙の本でした。本箱にずらっと並んでいて、りっぱなものでしたが、「なぜ、この本を買ったんですか」と私がききましたら、「田舎の子供たち(農学校の教え子の事)が、性でまちがいをおこさないように教えたいと思って」という答えでした。 (6)
と書いている(7)。実際、教え子の簡悟は、
先生はイギリス人、フランス人、ドイツ人の性に関する原書を読んでおられ、そのへんのありきたりの性問題を取り扱う人たちと違って深い洞察をもっておられました。先生は私にその原書を取り出して中頃の頁をひらき翻訳しながら読んでくれました。私は生徒の中でも一風変わった存在であったし、先生に判断されるまでもなく、箸にも棒にもかからぬような性質をもっていたことも事実ですから、私にしっかりした性についての知識を与えてくださるために、赤裸々にああしたことをいってくださったものと思います。
と証言しており(4)、根子吉盛も「私は二年生の夏休み、先生から性教育を受けました。先生は私に対して性の問題について、しばしばその考えを述べられたり、秘戯画による指導をいただきました」 (4)と述べている。
エリスは性教育について一章を割き、
若い男女に別々に性的関係の講義や説明や又丁寧な話をしてやることは、後年になって、即ち青年時代に非常な利益を与へるものである。然し話手は常に特別に精選した、教師か医者か、又は、此の特別の目的を紹介出来る資格の者でなくてはいけない。 (略)性は当然に神秘的なもので、特に悪ずれのしない若い男女にとつては、さうであるから、単に抽象的な術語ばかりでは、うまく説明することが出来ない。併し人生に不馴れな若者と経験を積んだ人との私的の会話では、公に言へないことでも、具体的に説明出来るし、又そればかりでなく、両親に向つては、羞恥心と慎みの為め、ちよつと言へない疑問でも、その時に問ひ質すことが、出来る、そんな場合でなくては、若い男女は、その疑問を経験家に質すやうな好い機会を、仲々持たないものである。
矢口訳「性的教育」
と書いている。賢治が農学校に裸婦像を掲示したこともよく知られており、小倉は「性教育の手段として優れた裸体画に親しませるという記事があった記憶が私にはある」とするが (1)、おそらくそれは、
独逸の某法律家は、若し青年が異性の機官と機能とを適当な程度に知つて居るならば、淫らな行為の九割は減じてしまふだらう、蓋し彼等の行為は抑圧された自然の好奇心が現れたに過ぎないのだと言つて居る。幾多の幼少なる男女が此の問題に関して相互に満足する解決をしようと本能的に共同する、而も彼等の無智は彼等をして不健全な方法に依らしめ、単に肉体上の事実にのみ注意を向はしめるために、性欲的興奮を教ふるに止まる結果を得るに過ぎないことになる。然るに彼等が、遊戯で又は体操で、若くは運動遊泳等で、幼少から異性の裸体を知る時は、自然に得られた身体構造の知識には何等不健全な結果を伴はぬことにならう。従つて過去に於て性的生活を毒した猫かぶり助平根性等は消滅するに至るであらう。
矢口訳「性的教育と裸体」
といった箇所について言っているのだろう。
ただ、これを普通の意味での性教育、すなわち「性知識や性道徳に関する教育(広辞苑)」とのみすべきではないように思う。というのは、賢治が「助平根性」自体の消滅を願っていた可能性があるからだ。賢治は後年「日本の農民は肉体労働と性欲だけの生活を古い時代から押しつけられて、精神労働を犠牲に、ただ二つだけでやってきたのですね」と語ったというから (6)、自分の教え子たちには、性に対して過剰な興味を抱かせないようにして、それに費やすエネルギーを労働や精神労働に振り向けさせようとしたとも考えられるからである。
森荘已池は、賢治と一緒に小岩井農場にスケッチ旅行に出た際の回想をこう書いている。
――春になって、蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴へ、ステッキをつきさせば、穴から冷たい空気が出る。ほの暖かい桃いろの春の空気に……
私が、そのような詩を、その春に作ったことを宮沢さんに話した。すると、宮沢さんは、にわかに活発な口調になって、
《あ、それはいい、よい詩です》
と、言った。ほめられたのだなと喜ぶと、つづけて言った。
《実にいい。それは性欲ですよ。はっきり表われた性欲ですナ》
私は詩をほめられたのではなかった。
《フロイド学派の精神分析の、好材料になるような詩です……》(6)
このエピソードから、賢治が少なくともこの時(一九二五、五、一一)までに、フロイトの説を知っていたことがわかるが、賢治が春を性欲の高揚する季節として捉えていたことの証拠にもなるだろう。そしてその意識を豊富な具体例と共に賢治に与えたのは、他ならぬエリスであったと考えられる。
例えばエリスは睡眠中の射精数をグラフにしたもの(エクボール曲線)について
一年中に春季の絶頂期と秋季の頂絶期との二クライマックスが現はれ、最初の大規模なクライマックスは、四、五、六、七月の四ヶ月に渉り次に現はれる小規模な秋季のクライマックスは、十一月だけに限られてゐることが見られる。斯くの如く沢山に蓄積された登録資料の光に照して見ると、吾々は、著者が既に本書第一版中で述べて置いた通り、春季と秋季とに絶頂期を示す所の年周的エクボールの周期律があることを今や一層ハッキリと認めることが出来る訳である。
増田訳「性的周期律の現象」
と述べ、春と秋には性的な祭が集中していること、妊娠率がピークに達すること、犯罪の発生数が高くなること、学校や監獄内でのパンの消費量が増加すること等のデータを示している。大塚常樹は、賢治がエリスの著書を読んで最も関心を抱いただろう内容として「性的周期律の現象 (Phenomena of Sexual Periodicity)」の章をあげているが(2) 、そのとおりかもしれない。
エリスは性的周期律と読書の関連についても
稗史小説の閲読者は、上述の如く春三月に最高率を示してゐるが、それにほゞ近い第二のクライマックスが秋季に現はれてゐる。一八九七年から九八年に至る間の諸統計に見ると、十月に、でなければ必ず十一月にそれが現はれてゐ、一八九六年のには、どの統計にもそれが十月に現はれてゐる。して見ると、稗史小説の閲読率の周期律が、妊娠率や性的エクボール現象の周期律と一致してゐることが知れる。
増田訳「性的周期律の現象」
と書いているが、賢治はこれを性的周期律と芸術の関係に拡大して理解していたとも考えられる。というのも教え子であった沢里武治の証言に
ある日、例のごとく机を中にして先生と相対しいろいろのお話をうかがっていたら、先生はやおら立ち上がって戸棚の中から一枚のグラフをお出しになり、芸術と禁欲生活についての線を縦横に引張ったものを私に指し示し、いろいろとご説明下さいました。 (8)
とあるからである。エリスの著書には十三のグラフが示されているが、「芸術と禁欲生活について」というグラフこそ存在しないものの、これらのうちのどれかを賢治がそう説明した可能性は十分にあると思われる。
そこで『春と修羅 第一集~第三集』の制作月をグラフにしてみたのが図1である。エリスの掲げた図2と比べると、ピークが春と秋で逆転していることなどに違いはあるが、賢治の創作がエクボール曲線とほぼ一致していたことが確認できよう。賢治はエリスの説を頭の中で意識していただけでなく、実際の創作活動にもそれが表れていたことになる。もっとも制作日を意図的に決めていたとは考えにくいので、これはエリスの影響と言うにはあたらないかもしれない。しかし、教え子に「芸術と禁欲生活について」のグラフを示す賢治であれば、自らの創作活動を省みてこうしたグラフを作り、エリスに対する信頼を一層深めた可能性もないとは言えない。
↑ 図1 『春と修羅』の制作月
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図2 エクボール曲線の年周的リズム ↑
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また、エリスは月の周期性と女性の性的周期が一致するように、男性にも月毎の性的周期律があるとする説を「必ずしもその誰もが彼等自身の説を支持するに足る確実な証拠材料を提供してゐるとは言ひ得ない
(増田訳「性的周期律の現象」)としながらも紹介している。例えば「四十九歳になる精神錯乱の一男子の例」として
「彼は過去二十六ヶ年間といふもの、極めて規則正しく四週間目毎に殆ど終日に渉る心的亢奮の惹起を繰り返して来た男であった。それは、時としては大して狂的にもならず、何等外的行為となつて現はれもしないで自然と鎮まつて行つたこともあつたが、時としてはそれと全然反対に酷い狂的状態を示すことがあり、而かもそが一日から長きは四週間位までも続いた。さうした発作の先触れとしては、いつでも頭脳中に何とも言へない不快な感情がむづ/\と起つて来、次に背部の疼痛と心的気だるさと軽微な陰鬱とが現はれる。心的亢奮期間中には、発作が非常に頻繁となる。彼自身の言ふ所によると、斯うした状態の場合に、夜中十分にして何等羈束なき遺精が行はれると、心的亢奮が訳なく鎮まつて行くが、遺精が起らなければそれが依然として続いて行くと。偶には、臭化剤乃至沃剥剤を十分服用すると、心的亢奮を止める効果を得ることもあるが、必ずしもいつでもさうだとは言へない。また、極めて長い道のりを歩きつゞける時にもまゝそれと同じ効果を得ることの出来ることもある。強い程度の亢奮が現はれた時には、その後に必ず約一週間許り気抜けしたやうな沈鬱が来る」と。
増田訳「性的周期律の現象」
と紹介している。賢治の親戚にあたる関登久也は、
ある朝、館の役場の前の角で旅装の賢治に会いました。それは前の話より、よほどあとのことですが、たぶん賢治三十歳前後のことだと思います。顔が紅潮していかにも溌剌とした面持ちでした。どちらへおいでになったのですか、ときくと岩手郡の外山牧場へ行って来ました。昨日の夕方出かけて行って、一晩中牧場を歩き、いま帰ったところです。性欲の苦しみはなみたいていではありませんね。そういって別れました。賢治が童貞を守るための行はなかなか容易ならざるものだと感じ、深い尊崇の念さえ湧いてきました。 (8)
と語り、友人の藤原嘉藤治の証言には
―おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。底まで汲みほさなくてもいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだな―。 (6)
というものがある。これらの証言からも、賢治が湧きおこる性欲を抑えるために屋外を歩いていたことは明らかだが、だとすれば「四十九歳になる精神錯乱の一男子」と同じように、賢治の散歩と月齢に関連性を見出すこともできるかもしれない。さらに屋外を歩行しながら書いた作品の多い賢治であるから、作品数と性的周期律の間に関係が見出せるかもしれない。
そこで『春と修羅 第一集~第三集』の制作日(旧暦)をグラフにしてみたのが図3である。もちろん創作意欲と性欲がいつも関係していたわけではないだろうし (たとえばトシの死を詠んだ「永訣の朝」など)、日付自体も、果たして取材日か制作日か、あるいは推敲日なのかといった論議も決着していない。また賢治は月のきれいな晩に、きまって生徒を連れ出して散歩をしたというから、その意味でもこのグラフの精度はあまり厳密なものであるとは言えない。しかしエリスの原著の巻末にAppendixとして収録されたF・H・パーリー・コーストの「男子の性的周期律」中の図 (図4)と比べてみると、グラフの山と谷の数や形、分散の仕方に似たところがあるとは言えないだろうか(9) 。
↑ 図3 『春と修羅』と旧暦
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図4 男性の月周的性的リズム ↑
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たまたま30日には制作していなかったので、グラフからは省いている |
左側の数字は射精回数、上部の数字は旧暦1ヶ月間の日次。 図中の点線は1886、87、88、91、92の6ヶ年間の射精総数を示し、破線は1893、94、95、96、97の5ヶ年の総計を示す。白線は11ヶ年間の総数を示す。 |
現段階では賢治の作品そのものにエリスの性的周期律に関する説がどう影響しているかを探し出すのは困難だが、今後、賢治詩の生成について、新しい視点から捉え直す必要が出てくるかもしれない。
いままで見てきたように、賢治はエリスの著作に触れながら、性についてのさまざまな知識を吸収し、教え子への性教育や自分の創作活動に生かしてきたことは確かなようだ (10)しかし、かくまで熱心にエリスを読み、性に対する認識を深めていた賢治が、いったいなぜ生涯独身を通し、童貞のままであったのかという謎は、よけいに深くなってくるように思う。もちろん妻帯がタブーであったのは出家信者の常識であったし、恋愛や性欲を宗教的立場から否定しようとする「小岩井農場」に展開される論も無視できない。しかしこれは国柱会の田中智学も口にしていない主張であり、賢治の信念のよって来たるところを、ただ宗教的な理由だとするだけでは説明不足ではないだろうか。
ではエリスが賢治の独身主義哲学の形成に作用した可能性があるのかと言うと
恋愛情緒と宗教的情緒とは動やともすれば人間の精神的機能を爆破させ勝ちな最も強力な火山的二情緒であり。従つて、是れ等領域の孰れか一方に激動が起れば、その余波が容易に今一方に及んで来るのは敢て怪しむに足らぬ。また動力的に見れば是れ等二情緒が互に強力な相関々係をもつてゐ、二者中一層原始的、根本的であるところの自己色情的衝動が発露されずしてそれのエナージーが消費されないまゝになつてゐる際には、該余剰エナージーが宗教的情緒となつて発露され、これ迄無視されて来てゐた宗教的情熱が発揮されるといふこと、換言すれば人間愛が神への聖なる愛へと変つて行くといふ事も決して驚くに足らぬことである。 (略)肉体的方面のみから見ても、性的活動に絶対的抑圧を与へてゐると、その為め可なり強烈な程度の精神的熱情が惹起されるやうに思はれる。これと同じく精神的熱情が旺んに発揮されてゐると性的情熱は忘られ勝ちである。
増田訳「宗教に於ける自己色情的要素」
という件りは、賢治の
肉体労働と精神労働それに性欲と、この三つを一度に生活のなかに成り立たせるということは、まずまずできません。日本の農民は、肉体労働と性欲だけの生活を古い時代から押しつけられて、精神労働を犠牲に、ただ二つだけでやってきたのですね。 (6)
という言葉のヒントになったと考えられ、この精神は、羅須地人協会で約半年同居した千葉恭が賢治から、農村の指導者になろうとするなら「カカアをもらわないこと」が条件だと言われたというエピソードにも繋がっていると考えることもできよう。 (11)
また友人の藤原嘉藤治に対して、賢治は
―性欲の乱費は、君自殺だよ、いい仕事はできないよ。瞳だけでいいじゃないか、触れて見なくたっていいよ。性愛の土壇場までいかなくてもいいのだよ―。
―おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。一瞬のほほえみだけでいいんだ。底まで汲みほさなくてもいいんだ。においをかいだだけで、あとはつくり出すんだな―。
―花は折るもんじゃないよ。そのものをにぎらないうちは承知しないようでは、芸術家の部類に入らないよ。君、風だって、甘いことばをささやいてくれるよ。さあ行こう―。 (6)
と語ったとされているが、これもエリスの
恋情的満足の一要素としての純潔に関して、エドワード・カーペンターはかく書いてゐる。『肉体的欲望に就いては〔幼〕児が美しい花を見て直に件の花をひつかみ、そして間もなくそれを引き付けた形や香を〔駄〕目にして了ふ時から受ける所のものに類似した一種の幻想がある。少し自分を抑へる所の人が唯だ充分の栄光を得、必要があつても所有しようとは望んでゐない人が真に所有する。より下品な欲望を其等が彼の体に来る時受けて、拒まないで、如何にして其等を随意に最も稀れな匂はしい人間情緒の花に変へるかを知つてゐる其の人は実に人生の熟達者である。』人格を造り上げ、色情生活を高め貴くし、そして家族と社会との義務の適当な履行を助ける点に於けるそれの職能以外に、純潔は芸術を修める人々に対して更に特殊な価値を有してゐる。
鷲尾訳「純潔の職能」
という件りを、賢治なりに言い換えたものであるように思える。
しかしエリスは
『性的抑制』の概念は、我々の見る限り、全く誤れる人為的な概念である。それは唯だその場合の衛生的事実に不適合である許りか、又それは如何なる純粋に道徳的な動機を求めるにも失敗するのである、何故ならばそれは専ら自尊的であり自己中心的であるからである。
鷲尾訳「性的抑制の問題」
として、性的抑制を決して是としているわけではない。つまりエリスの著書にも賢治の禁欲の由来を解くヒントは見つからないということになりそうだ。賢治はエリスの著作に触れることによって、禁欲による精神的機能の向上と、禁欲を励行することの無意味さの両方を学びながら、敢えて禁欲の道を進んだ、ということになる。
晩年になって賢治は、
「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。」
自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少くとも、百八十度どころの廻転ではない。天と地とが、ひっくりかえると同じことじゃないか。
「何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした。」(6)
と、性的抑制の無意味さについて告白するようになったが、それはエリスの
積極的道徳の要素は斯くて唯だ性的衝動の制限が厳格な過酷の抑制の程度外に過ぎて、唯だに性に於て弊害である所のものの故意的拒絶許りでなく、又善なるものゝ故意的受容になつた時入るのみである。斯様な制限が生活の大なる技巧の真の部分となるのは其の時に於てのみである。何故ならば生活の技巧は如何なる外の技巧にも似て厳格と矛盾しないで、拒絶と受諾、授与と収得との間の永遠の調和を織る事の内に存してゐるからである。
鷲尾訳 「性的抑制の問題」
を、ようやく受け入れられるようになったということなのかもしれない。
性的抑制に関するエリスの所説は、少なくとも若き日の賢治に決定的な影響を及ぼすには至らなかったようだが、賢治の性的抑制について、別の視点から考えるヒントを与えてくれるのが「産児の科学 (The Science of Procreation)」の章である。エリスはここで優生学、つまり「人類の遺伝的素質を改善することを目的とし、悪質の遺伝形質を淘汰し、優良なものを保存することを研究する学問 (広辞苑)」について述べている。
優生学は十九世紀末から二十世紀前半にかけて世界的に流行し、例えばナチス・ドイツでは、精神病患者を強制的に断種したばかりか、ガス室送りにしたことも明らかになっている。現代からみると、この時代の優生学の人権侵害的性格、そして非科学性は驚くばかりだが、当時、先進国といわれる国の多くが優生学の意義を認め、積極的に推進していた。日本でも一九一〇年代からひろまっており (12)、大正十三年には定期刊行物の『ユーゼニックス (翌年より『優生学』に改称)』が、大正十五年には『優生運動』が創刊されている。そして昭和十年には、ナチスにならった国民優生法が成立している (同法は戦後も優生保護法に名を改め、平成八年まで運用されていた)。
優生学の積極的推進者でもあるエリスは、『性の心理』に次のように書いている。
どこの都会を歩いて見ても、吾々は其処に明かに此の世の中に生まれて来べきでなかつた人々が無数に蠢いてゐることに気づかざるを得ず、これを見るにつけても、出産率が今日のところまだ/\頃合ひにして健全な制限を超えてゐることの甚しいのを感ぜざるを得ない。過去に於ても、最も偉大な国家といへば、多くはその国民の数の点から見れば最も少数の国家であつた。といふのは、その偉大さの関はるところは、国民の数の問題でなく質の問題だからである。事実、最良タイプの市民を殖やすことによつてのみ、その国力を豊かにすることが出来るのは疑ひないところであるからして、国民がたゞ矢鱈無性に人間の屑を国内に産み落し単にその頭数だけを殖やすことは、今日では最早や許すべからざることゝ認められはじめて来てゐる。といふのは、それは啻に国民の質を低下させるのみならず、国家に過度の経済的重荷を負はせるものだといふ事が段々と理解されて来たからである。
増田訳「産児の科学」
さて、こうした文章を読んだ賢治は、いったい何を考えただろう。あるいは次のような一節を読んで、いったい何を感じたのだろうか。
結核患者の系統を引いた夫婦の間に於ても、万全の策を講じて子供を生まないで済ますやうにしなければならぬといふ事は、これまた幾多の学者から主張されてゐるところである。(例へば一九〇〇年にネープルスで開催された結核病会議の席上で、マッサロンゴーが結婚と結核との関係を論じてその必要を力調してゐる。)
増田訳「産児の科学」
こうした記述もある。
ネープルスのアンゼロ・ツッカレルリ教授も亦、一八九九年このかた癲癇患者、種々の精神病患者、アルコール中毒患者、結核患者、先天的犯罪狂等の繁殖能力を奪ふために去勢の必要をたび/\力説し、斯の種の手術を与ふべき人か否かの鑑定は、これを学齢児童を診察しつけてゐる経験ある医師とか、官公署の就職志望者、乃至結婚しようとする人々を診察することに熟練をもつた医師に委すべきであると述べてゐる。
増田訳「産児の科学」
賢治は大正七年四月、徴兵検査に事実上失格した。軍医から「君は心臓が弱いね」と言われたと書簡に書いているが、『本道と結核』 (大二 北海道庁警察本部)によれば、医者が患者を気遣って「故意に気管支とか心臓の病気だとか体裁のよい病名を附けて置くのも寡くない」とあることから、この時すでに肺を病んでいたのだと考えてよいだろう (13)。
さらに同年六月二十三日には同居中の従弟・岩田磯吉が肋膜炎と診断されて帰省。六月三十日には、賢治自身が肋膜炎だと診断されている。この頃、友人の河本義行に「わたしのいのちもあと十五年はあるまい」と語ったというから、賢治は自分が結核に感染していることを、大正七年には悟っていたとしてよいだろう。
たしかに賢治は病没するわずか一年半前の昭和七年二月十九日になっても、「茲十日以内には起きて歩ける見込もつきましたし今度も幸に肺結核にはならずに済みましたからこの夏はきっとまた去年のやうに仕事ができるだらうとそれのみ楽しみにして居ります」と書いているが、これは自分が結核感染者ではあっても、結核患者であるとは認識していなかったということなのだろう。
仮に賢治が結核に感染さえしていない(あるいは完治した)と思っていたとしても、宮沢は結核患者を多く出す家、すなわち「マキ」と呼ばれて差別を受けていたという証言があり (14)、実際、従弟の磯吉や妹・トシの他にも、母・イチ、叔母・コト、磯吉の父・金次郎も結核を患っていたことから (15)、いつ自分が発病しても不思議ではないと彼自身思っていたに違いない (16)。
そしてそうした意識が「ポラーノの広場(初期形)」における次のような場面を書かせたのではないだろうか。
「さうだ、諸君、あたらしい時代はもう来たのだ。この野原のなかにまもなく千人の天才がいっしょにお互に尊敬し合ひながらめいめいの仕事をやって行くだらう。ぼくももうきみらの仲間にはいらうかなあ。」
「あゝはいっておくれ。おい、みんな、キューストさんがぼくらのなかまへはいると。」「ロザーロ姉さんをもらったらいゝや。」たれかゞ叫びました。わたくしは思はずぎくっとしてしまひました。いや、わたくしはまだまだ勉強しなければならない。この野原へ来てしまってはわたくしにはそれはいゝことでない。「いや、わたしははいらないよ。はいれないよ。なぜなら、もうわたくしは何もかもできるといふ風にはなっていないんだ。わたくしはびんばうな教師の子どもにうまれてずうっと本ばかり読んで育ってきたのだ。諸君のやうに雨にうたれ風に吹かれて育ってきてゐない。ぼくは考はまったくきみらの考だけれども、からだはさうはいかないんだ。」
ポラーノの広場への思いを熱く語るキューストが、「ロザーロ姉さんをもらったらいゝや」という言葉をきっかけに、突然方針を改めたのはなぜなのか。これは「ポラーノの広場」を考える上での重要なポイントとなっているが (最終的には削除されたとしても)、エリスをはじめ当時流布していた言説をふまえて考えてみると、キューストは優生学的な理由で結婚を忌避したのだと考えるのが、最も自然であるように思う (17)。
羅須地人協会を設立するときに「先さたって助けろ」と賢治に言われたという一農民である高橋光一は、「私などが心安だてに「どうして奥さんをもらわないのですか、貰いなさい。貰いなさい。」と何度か責めるのですが、その度に、「俺は病気持ちだから……」といつも逃げてしまって、その話になるのを好まれませんでした」という証言を残しているが (18)、これはまさに「ポラーノの広場」におけるキューストの立場そのままのエピソードではないだろうか。
また、賢治は昭和六年七月二十九日の菊池信一宛書簡で、「結婚は私のやうに身体の弱くない限りは当然でまたその外に道はありません」と書いているし、昭和四年 (日付不明)の小笠原露宛書簡下書きには、自分が結婚しないでいる理由として「私の場合では環境即ち肺病、中風、質屋など、及び弱さ」をあげている。つまり優生学は賢治の生き方や思想、作品に大きく影を落としていたと考えられるのである。
賢治が悪名高き優生学に荷担していたというのは、信じにくいことかもしれないが、そもそも進化論の信奉者であった彼が、優生学だけは認めなかったと考える方が困難だろう。というのも、優生学がタブー視されはじめたのはようやく一九七〇年代後半になってからで (19)、例えば賢治の蔵書であったエルンスト・ヘッケルの『生命の不可思議 (賢治は原書で読んだ)』には
毎年生るゝ数千の不具者、聾唖、白痴、其の他、到底治癒すべからざる遺伝的素質を有する者を、人工的に養育して成人せしむるも何の益かある。此の同情すべき人々自身も、其の生命より何等の利益を受くるか。然らば彼等の憫むべき生涯が、自己及び其の家族に及ぼす、避け難き不幸を其の初めよりして直に断絶するは、合理的にして、且、良好なるものにはあらざるか
後藤格次訳 大三 大日本文明協会
とあり、賢治も読んだとされる丘浅次郎の『進化論講話』にも
人種生存の点からいえば、脳力・健康ともに劣等なものを人為的に生存せしめて、人種全体の負担を重くするような仕組をなるべく減じ、脳力・健康ともに優等なものがいずれの方面にも必ず勝って働けるような制度をなるべく完全にして、個人間の競争の結果、人種全体が速やかに進歩する方法を取ることが最も必要である。
初版・明三七、大三・第二版/昭四四 復刻版 有精堂
という件りがあるからだ。
彼らは優勝劣敗や適者生存の原理を自然界だけでなく、社会にも適用しようとしたわけだが、競争を嫌い、喧嘩や訴訟を「ツマラナイカラヤメロ」と言った賢治も、実はこうした原理の支持者だったのである。それは「なめとこ山の熊」に「こんなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」とあり、また『詩ノート』に「おほよそ卑怯な下等なやつらは/みんなひとりで日向へ出た蕈のやうに/潰れて流れるその日が来る」と書かれていることにも明らかだろう。
ただ、賢治は金持ちや権力者といったいわゆる強者を「適者」であるとは認めず、そうした偽りの強者たちは、時間の経過とともに、すなわち社会が進化するとともに消えていくのだと考えていたようで、「適者」の意味を転倒させたところに独創性があったと言うことができよう。
しかし、こと病気に関しては「適者」の意味を問い直すことなく、例えば『詩ノート』には「労働を嫌忌するこの人たちが/またその人たちの系統が/精神病としてさげすまれ/ライ病のやうに恐れられるその時代が/崩れる光の塵といっしょにたうたう来たのだ」といった言葉を残しており、これだけで賢治が「精神病」や「ライ病」をどのように見ていたかは明らかとなる (また「その人たちの系統」という言葉から、賢治がこれらの病気を遺伝的なものだと考えていたことも明らかである)。また羅須地人協会に押しかけて来た小笠原露に対して、賢治は自分がレプラ (ハンセン氏病)に罹っていると告げたことも知られているが、その際、「だから、自分は結婚しないのだ」と語ったと言われている (6)。
つまり宮沢一族を肺病マキといって差別していた人たちと、賢治は科学的にも倫理的にもほとんど同じレベルであったということになるだろう。もっとも賢治の場合、差別者であると同時に被差別者でもあったことに違いはあったかもしれないが、いずれにせよ賢治が社会における「劣悪なもの」の芽を摘み、「優良なもの」を育もうとしていたことに違いはあるまい。彼がいったいどのような未来社会を思い描いていたのか、先入観やイメージにとらわれず、もう一度考え直す必要があるのではないだろうか。
註
(1)小倉豊文「宮沢賢治の愛と性」 (『宮沢賢治9』平一・十一 洋々社)
(2)大塚常樹「「春谷暁臥」論 《春》の象徴と、フロイト、エリス」 (『宮沢賢治 心象の宇宙論』平五 朝文社)
(3)杉原正子「賢治とエリス (上・下)」(『賢治研究・』平六・十二 平七・四)、 「「〔ふたりおんなじさういふ奇体な扮装で〕論 (上・下)」(『賢治研究・』平七・十二 平八・四) 、「ハヴロック・エリスと賢治」 (『宮沢賢治学会イーハトーブセンター 説明シート』平八・三)。
(4)佐藤成『証言 宮澤賢治先生』平四 農文協
(5)今のところ賢治が三訳書のうちのどれを読んだかは特定できない。本論における引用もそれぞれの訳本からまちまちに行っているが、いずれの訳本もエリスの著書の部分訳
(矢口訳では、原文を圧縮しながら訳している)であるための処置である。しかし、そもそも賢治は原著にも目を通していたのであるから、三訳書のうちのどれを実際に手に取ったかを特定する意味はあまりないと思われる。
また原著の方も何度か改版されているので、賢治の考えと原文を厳密に比較対照するのも極めてむずかしいと言わざるを得ない。
(6)森荘已池『宮沢賢治の肖像』昭四九 津軽書房
(7)エリスの原著は、内容が淫らであるとしてイギリスでは出版を禁じられていたので、森の言うように赤茶色のクロース表紙の本ではあったが、アメリカのF・A・デイヴィス社が出版していた。また「十何巻ぐらい」とあるが、実際は六巻 (または七巻)構成で、森は訳書の『性の心理』と混同していると思われる。
(8)関登久也『賢治随聞』昭四五 角川書店
(9)この他にコーストはエクボールの週期律についてのグラフも掲げ、年によるばらつきが激しいにしてもリズムは確認できると言う。賢治の方は日曜に作品数が最も多く、月曜、木曜と続くが、コーストの提示しているグラフと比較するにはデータ不足である。エリスは「土曜日からかけ、特に日曜日の午後は、自然と想ひが色つぽい方面へ駆けて行く時で、自涜や自発的な性的亢奮に陥る傾向が一等多い (増田訳「性的周期律の現象」)」と書いてもいる。
(10)教え子や友人の証言にある通り、賢治は『性の心理』だけを読んでいたわけではなく、古今東西の性に関する本を読んでいたと思われるので、厳密に言えばこのような断言は慎むべきかもしれない。
(11)「羅須地人協会時代の賢治 (二)」(第二期『イーハトーヴォ5』昭和三十・五)
(12)藤野豊『日本ファシズムと優生思想』平十 かもがわ出版
(13)福田眞人『結核の文化史』平十 名古屋大学出版会
(14)吉田司『宮澤賢治殺人事件』
(平九 太田出版)によると、著者の母・コトがそう証言している。コトは賢治の弟子であった松田甚次郎と交流があり、昭和十三年に花巻を訪ね、政次郎らと言葉を交わしている。この他にも吉田は花巻の古老の話として「羅須地人協会の建物は一度売りに出されたんだけど、結核が伝染ると怖いから、なかなか売れなかった。やっと買い手がついた時、建物の中にはまだいーっぱい賢治さんの本や書類が残っていた。それ、結核の人が手にとって見たものだからと、買い手夫婦が一日がかりで全~部ボンボン燃やしてしまったって。私はそれ、燃やした本人から直接聞いたんだから間違いない」という証言を聞き出している。
また吉田の証言以外では、「溯ってのトシ子さんの病死がからまって居ります。挽歌として比類のない名作をうんだ、この土地の、その建物が、当時の衛生観念からすれば部落の人達にしては恐しいものだったのです。崖下に残る沼の水色も不気味なものであり、真昼間も瘴気を立ちのぼらせているかの様です。うっ蒼とした木立ちは夜に木霊魑魅の跳梁の場所と思えたのでしょう。一日の労働で疲れ果てた人達も、この路を通る時は足早やだったと云います。とにかく、死は恐怖であり、病は破滅である事を骨身にこたえてそれを警戒していた人達だったのです。」という高橋光一の証言が、飛田三郎によって残されている
(「肥料設計と羅須地人協会(聞書)」『宮澤賢治研究』昭四四 筑摩書房)
(15)もちろん結核が遺伝病ではなく感染症であることくらい賢治もエリスも知っていたはずだが、当時、体質という概念がクローズアップされ、結核にかかりやすい体質は遺伝するのだということがまことしやかに伝えられていた。従って肺病遺伝説に基づく「肺病マキ」の通説はそのまま生き残ることとなった。
(16)賢治が最初に結婚しないことを宣言したのは、管見によれば大正七年二月二日の政次郎宛書簡で、自らの肋膜炎発症やトシの結核感染以前のことである。それでも「肺病マキ」の噂はすでに囁かれていた可能性があるので、この時の結婚忌避宣言も優生学的な理由に基づいていたと考えても矛盾は生じないと思われる
(ただしエリスの訳書はまだ出ていない)。しかし、マルサス主義による結婚忌避についても考えてみる価値があるように思う。
マルサスは『人口論(一七九八)』で、食料供給は幾何級数的にしか増加しないが、人口は算術級数的に増加するとして、絶対過剰人口の悲惨な宿命について論じたが、賢治は盛岡高等農林に入学する際の面接で、「日本は人口が増えてますます米がたりなくなります。よい米をたくさんとれるようにして国民生活を安定させたい。」と述べたと言われている(年譜 宮澤賢治伝)。また大正七年三月十日の父宛書簡では「戦争は人口過剰の結果その調節として常に起こるもの」だとも述べており、これも背景にはマルサスの『人口論』があると言ってよいだろう。当時は避妊による人口調節を主張した新マルサス主義が喧伝されていたので
(エリスもしばしば言及している)、賢治が結婚に消極的だった理由のうちの一つに数えてもよいように思う。ちなみにダーウィンはマルサスの『人口論』に触発されて『種の起源』を書いたと言われている。
(17)キューストはこの場面で、「勉強のため」に仲間に入れないのだということを内言でしか言っていないが、「体が弱い」ということは口外している。このことから、キューストは勉強のために結婚を忌避するという本当の結婚忌避の理由を、おそらくは理解されにくいと思って隠し、優生学を「言い訳」として使った可能性もある。
(18)飛田三郎 前掲
(19)松原洋子「優生学
」(『現代思想 臨時増刊』平十二・二)