宮沢賢治の言葉

信時 哲郎

 賢治は自分を凡人中の凡人だと思っていた。彼は宇宙の真理としての法華経の教えにしたがって生きただけの凡庸な人間にすぎなかった。しかし彼は自分の凡庸さが、世間の常識と必ずしも一致していないことに気づくにつれ、自分が世間からまつたく孤立してしまっているのではないかという不安にさいなまれるようになった。

 ――もしかしたら本当に自分はかわったことを言っているのかもしれない。いや、そんなことはない――賢治は自分の常識が世界の常識と同じであることを自分に言いきかせ、他人にも確認を求めずにはいられなかった。自分の言っていることは絶対に正しい。自分のためにそれを主張しているのならあきらめもつこうが、相手のためを思って言っていることであるからどうしても納得してもらわなければならない。宇宙の真理としての法華経は誰が何といったところで絶対的に真理なのである。全生命体がそれを理解してくれなくては、賢治ひとりの信仰だってなりたたなくなってしまうのだ。

 問題なのは、うまく信仰の正しさを伝えられる言葉がないということだ。世界にこれだけ多くの宗教と迷妄がはびこっているのは、法華経の言葉がうまくいきわたっていないからなのだ。なんとしてもやりとげねばならないのは、完全なる言葉を見つけて法華経の正しさを伝えることである。

 言いたいことが思うように言葉にならず、結局、うやむやになってしまうという、誰にでもある経験を賢治の作品の主人公もしている。

ジョバン二がこらへ兼ねて云ひました。
「僕たちと一緒に乗って行かう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうこゝで降りなけぁいけないのよ。こゝ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしさうに云ひました。
「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰っしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「さうぢゃないょ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑ひながら云ひました。
「ぼくほんたうはよく知りません。けけれどもそんなんでなしにほんたうのたった一人の神さまです。」
「ほんたうの神さまはもちろんたった一人です。」
「あゝ、そんなんでなしにたったひとりのほんたうのほんたうの神さまです。」
「だからさうぢゃあありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんたうの神さまの前に、わたくしたちとお会ひになることを祈ります。」青年はつゝましく両手を組みました。

「銀河鉄道の夜」

ここで重要なのはジョバンニに託された賢治の法華思想が青年のキリスト教に説き伏せられたということではなくて、宗教問答において言語がいかに無力かが描かれているということである。ジョバンニは屈服させられたわけではない。ただ言葉がみつからず、青年に自分の考えがうまく伝わっていないだけである。「ほんたうのほんたうの」とむなしく繰り返すことによってしか自分こそが<本当のこと>を知っているのだということを表現できないのである。これはジョバンニが子どもで、口ではとうてい青年にかなわなかったというだけの単純なエピソードではない。おそらくここでは、賢治と父との、友人の保阪嘉内との宗教問答で痛いほど感じさせられた言葉の難しさが強く意識されているにちがいない。

 賢治の父、宮沢政次郎は花巻では有力な商人(質・古着商)で、浄土真宗の熱心な信者であった。賢治も家族の影響を強く受け盛岡中学校四年の時(大正元年十一月三日)には父に宛てて

小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候 もし尽くを小生のものとなし得ずとするも八分迄は会得申し候 念仏も唱へ居り侯。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候

というふうに書き送っている。盛岡中学卒業後、家業を継がないで盛岡高等農林学校へ進学することを許された賢治は、この時生涯の書、島地大等著『漢和対照 妙法蓮華経』を読んだ。それ以来、真宗の教義から日蓮宗の教義の方にひかれて、父親の教義と対立するようになり、いつしか田中智学の国柱会に入会するまでになった。大正十年一月、賢治は国柱会に奉仕するために突然上京した。父はたびたび賢治に帰郷をうながすが

一応帰宅の仰度々の事実に心肝に銘ずる次第ではございますが御帰正の日こそは総ての私の小さな希望や仕事は投棄して何なりとも御命の儘にお仕へ致します。それ迄は帰郷致さないこと最初からの誓ひでございますからどうかこの段御諒察被下早く早く法華経日蓮聖人に御帰依遊ばされ一家同心にして如何にも仰せの様に世諦に於てなりとも為法に働く様相成るべく至心に祈り上げます。

「大正十年二月二十四日 父宛書簡」

というように賢治の意志は堅かった。絵局、大正十年八月に帰郷することになったが、それは妹の病気のしらせを受けたためで、父との宗教的な対立関係が解消したというわけではなかった。

 保阪嘉内と賢治は盛岡高等農林学校の寄宿舎で知りあった。共に文芸同人誌『アザリア』を発刊したが、なかでもこの二人は気があったらしく、行動をともにすることも多かったようである。全集に収められただけでも七十二通にのぼる賢治から保阪嘉内への書簡は、文学・宗教・生活すべてにわたるものであつたが、ことに宗教に関して賢治の熱っぽい思いが語られることが多かった。

いつか御約束した願はこの度一生で終る訳ではありませんから今後も又神通力によつて日本に生れやがて地をば輝く七つの道で割り一天四海、等しく限りなきの遊楽を共にしようではありませんか。

「大正七年三月十四日前後 保阪嘉内宛書簡」

私ハ曽ッテ盛岡ノ終リノ一年半アナタト一緒ニイロイロノ事ヲシタコロカラモハヤ惑ヒマセンデシタ。(タシカニワレワレハ口デコソ云ハネ同ジ願ヲタテタ筈デス。)ケレドモ今日二ナッテ実際二私ノ進ムベキ道二最早全ク惑ヒマセン。

「大正九年七月二十二日 保阪嘉内宛書簡」

とあるように、盛岡時代の彼らは何か人生の指針や倫理に関するような誓いをたてたらしいことが知れる。しかしそれは特別の宗教理念にそっていたわけではなかった。後年になって、賢治はその誓いが自分にとつては法華経信仰の現れであったということを根拠に、だからあなたも法華教徒でなければならないのだという強引な論法で保阪に入信をせまることになる。

南無妙法蓮華経と一度叫ぶときには世界と我と共に不可思議の光に包まれるのです あゝその光はどんな光か私は知りません 只斯の如くに唱へて輝く光です 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経 どうかどうか保阪さん すぐに唱へて下さいとは願へないかもしれません
先づあの赤い経巻(賢治が妙法蓮華経を贈ったことを指す・引用者注)は一切衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され本気に一品でも御読み下さい そして今に私にも教へて下さい。

「大正七年三月二十日前後 保阪嘉内宛書簡」

大正九年十二月に突然の国柱会入会をつげたあとになると、その傾向はいっそう顕著になって、しばしば賢治は泣き落しや脅しめいた文面を書き送っている。

 日蓮聖人は妙法蓮華経の法体であらせられ
 田中先生は少なくとも四十年来日蓮聖人と 心の上でお離れになった事がないのです。
これは決して決して間違いありません。

「大正九年十二月二日 保阪嘉内宛書簡」

私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を乗てるな。

「大正九年十二月上旬 保阪嘉内宛書簡」

以上の書簡を見ると、賢治のすがりつくような、不気味なほど粘着的な説法のあり方がよくわかる。おそらく父にむかってもこのような言葉が口にされたのであろう。

 ところで気になるのは賢治の語法である。いま挙げた三つの例にあきらかなように賢治は論議が重大なところにくると、きまってある言葉を繰り返して使っているのである。「南無妙法蓮華経」、「どうか」、「決して」、「私が友保阪嘉内」というフレーズがそれぞれ繰り返されている。はじめに挙げたジョバンニの「ほんたうのほんたうの神さま」という語法も思い出される。そこには強く思うことがあってもなかなか相手にそれが伝わらないというじれったさがこもっている。しかし受け取った方としては熱っぼい口調のもたらす暑苦しさを感じるだけで、法華経信仰が手に取るように伝わるということにはならなかったに違いない。

 父政次郎、保阪嘉内を法華経に帰依させられなかった体験から賢治が得たものは何であったか。それは自分の宗教心の至らなさに対する反省ではなく、また相手の不誠実さを責める気持ちでもなかった。まして法華経の教義の不備などでは決してない。自分にとっての真理であり、また宇宙にとっても真理であることを相手に説得させようとするまさに肝心要めの時になって言いたいことが伝わらない。真理を的確に表現できるうまい言乗が見つからずに何度も同じ言葉を繰り返すしかすべがない。そんな微力な<言葉>自体に対する強い疑いが持たれるようになったのであった。

 法華経は絶対に正しい宗教であるという確信が賢治にあったから、もし言葉をはるかにうわまわる完璧な思想の伝達手段が彼の思いどおりになるのだったら、世界中に法華経の教義の正しさを理解させることは何の苦もなくできるはずであった。

「おまえはいったい何を泣いてゐるの。ちょつとこっちをごらん。」いままでたびたび聞えたあのやさしいセロのやうな声がジョバンニのうしろから聞えました。
ジョバンニははっと思って涙をはらってそっちを振りむきました。さっきまでカムパネルラの座ってゐた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔をした痩せた大人がやさしくわらって大きな一冊の本をもってゐました。
「おまへのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまつすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっばりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行くがいゝ、そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
「あゝぼくはきつとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいゝでせう。」
「あゝわたしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちのこころがいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。

「銀河鉄道の夜」

 賢治が、あらゆるひとが辛福になれる世界として思い描いていたのは、言うまでもなく法華経があまねく信じられている世の中であった。それは引用文中の言葉で言いかえれば「ほんたうの考」が「実験」で明らかにされた世界である。そこでジョバンニに託された問題は、「実験の方法」をきめて「信仰」を「科学」と同じように万人の目の前で決定的に証明してしまうことであった。宗教を証明する方法、それは多くの仏典や、日蓮の辻説法のように言葉を使う方法か、あるいは奇跡をおこすというくらいしかないように思う。いくら賢治が法華経の言葉を絶対のものであると崇拝しても、その絶対性に震撼しない人が存在してしまうという事実だけは無視することができなかった。驚治において法華経や田中智学の著作がもたらした影響がそうであったように、言葉で宗教を伝えることは確かにできる。しかし、父や保阪を説き伏せられなかった時のように言葉による布教がかなわないとき、奇跡をおこすことのできない凡人賢治がとるべき道にいったい何が残されていたというのだろうか。

 そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしいんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなわりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
「さあいゝか。だからおまへの実験はこのきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。あゝごらん、あすこにプレオシスが見える。おまへはあのプレオシスの鎖をとかねばならない。」

 ここでジョバンニの体験していることをいつたい何と呼ベばよいのか。いままで黒い帽子をかぶった大人は言葉によって説教するだけであったが、ここではものものしく催眠術めいた方法でショバンニに何かを見せ、感じさせている。これは黒い帽子をかぶった大人が確信をもって、言葉以上に説得力あるものとして使った最後の切札としてのコミュニケーションの手段であろう。彼がこの方法について抱いていた自負は、そのすぐあとで「さあいゝか」「だから」というもはや説得済みの人に対する言葉が使われているうちにみることができる。一方ジョバンニも「あゝマジェランの星雲だ。さあもうきつと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と言っているから黒い帽子をかぶった大人の最後の切札は言葉よりも確実な成果をもって信仰の伝達を行ったと言ってよかろう。

遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて来るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとつてある。さあ帰っておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまつすぐに進んで行くがいゝ。そしてこれから何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」

夢から覚めたジョバンニに語りかけるブルヵニロ博士の「実験」はふつう我々がテレパシーと言っているもののようだ。とすると黒い帽子をかぶった大人の使った方法もテレパシーと呼ぶべきものだったといってよいかもしれない(1)。しかしこの部分を積極的に評価している人は少ない。この部分が削除される意向にあったという見方が支持される由縁である(2)。確かに作品の構想としては、ほんの一時ふと浮かんだだけのものだったのかもしれない。しかしこのようなところにこそ賢治が最も切実に思い描いていた理想が、つまり言語の不可能性を全く超越したテレパシーによるコミュニケーショシが成立する世界が夢みられていたという見解がなりたたないことにはなるまい。

詩の雑誌御発行に就て、私などまで問題にして下すったのは、真に辱けなく存じますが、前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから何とかして完成したいと思って居ります。或る心理学的な仕事の支度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としてさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。

「大正十四年二月九日 森佐一宛書簡」

 ここには文法的に難解な点は一つもないが、「心理学的な仕事」という言葉が具体的に何を表わしているのかわからない。しかし今までの考察をもとに想像をたくましくしていけば、テレパシーの能力を身につけることをさしていると考えていいと思う。大正のころには千里眼事件といったもので大騒ぎされたこともあったようであるから、こうした発想はそれほどとっびなものであるとは思われない。ただそれがこれほど熱心に求められた例は少ないに違いない。しかし、いずれにせよこうした力は、求めたといったところで簡単に「はいそうですか」と与えられるものではない。つまり「正統な勉強」は許されてはいないのである。そこで「心理学的な仕事の支度」として採用されたのは、無力な<言葉>と究極のコミュニケーションであるテレパシーの中間に位置する、<超言葉>とでもいうべきものの創出であり、それこそが心象スケッチの理想的な姿なのであった。

 賢治がこうした試みを企てたことと、明治末年から大正時代にかけておこった文章革命とでもいうべき動きとは無関係ではなかった。自然主義文学は大まかに言えば文語調や美文調を廃して、無技巧無彩色の文体をめぎざしたと言えるし、萩原朔太郎や高村光太郎の口語自由詩も型にはまつた言葉と韻律から自由になる試みだったと言ってよかろう。またこのころの作文指導法との間にも共通性があり、名文の模倣や候文のように型にはまった文を書かせることを意味した作文教育は、綴り方運動や『赤い鳥』の鈴木三重吉らによつて、児童の生活のありのままに書くよう指導すべきだという方向にかわっていった。彼らは自由な思想を盛る器として、伝統的文体をふさわしいものと考えなかった。言語そのものに磨きをかけて美しく権威ある文責を書くことより、内容を重視して素直で自己に忠実な文章を書くことが重くみられるようになったのである。

 宮沢賢治の場合はどう作用したであろう。内容を重視するとひとことにいっても賢治は心象スケッチのなかで、例えば「永訣の朝」では、妹の死にあってただ「私は悲しい」というようなことがどうしても言いたかったのだろうか。何について書かれているかとか、文学作品としての出来不出来はむしろ問題ではなくて、賢治が読者に期待したのは、賢治の「さまぎまの生活」をわがことのように感じとらせることではなかったのだろうか。ありのままの生活をできうる限りありのままに言葉に写しとって、読者にはそのありのままを追体験させることが目的とされたのではなかったのだろうか。

 心象スケッチ『春と修羅』の序文では、「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで」あると言っている。すべての感官を通して、あるいは感官を超えて心に映ったものを、形を少しもゆがめないで文字化したものこそ心象スケッチだというのである。『春と修羅』に収められた「小岩井農場」は、農場を歩きながら思いつくままを手帳に書き記していったも

のに推敲が重ねられて成立した作品であるが、この作品はただ楽しいばかりの遠足の日記めいたものからはおよそ遠い不可思議なものである。

すきとほってゆれているのは
さっきの剽悍な四本のさくら
わたくしはそれを知っているけれども
眼にははっきり見てゐない
たしかにわたくしの感官の外で
つめたい雨がそそいでゐる
 (天の微光にさだめなく
  うかべる石をわがふめば
  おゝ ユリア しづくはいとど降りまさり
  カシオペーアはめぐり行く)
ユリアがわたくしの左を行く
大きな紺いろの瞳をりんと張って
ユリアがわたくしの左を行く
ペムペルがわたくしの右にゐる
……………はさつき横へ外れた
あのから松の列のところから横へ外れた
  《幻想が向ふから追ってくるときは
   もうにんげんの壊れるときだ》
わたくしははっきり眼をあいてあるいてゐたのだ
ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまっ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
白亜系の頁岩の古い海岸にもとめただらう
  《あんまりひどい幻想だ》
わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
ひとはみなきつと斯ういふことになる
きみたちとけふあふことができたので
わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
血みどろになって遁げなくてもいいのです

このように文語がたまにまじっていたりもするが、文法的には決して難しいわけではない(3)。ただ農場の散歩の記述から、突如としてユリア・ペムペルというこの世ならぬものの出現に及ぶとやはりめんくらってしまうのである。「注文の多い料理店」の序文で、賢治自らも「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」と、作品の難解さについて語っているが、このように心象スケッチは、幻覚が突然現れるために作品としては難解になってしまうこともあった。しかしそれも自分の心の作用に忠実であろうという姿勢からおこったことなのである。

 日常の会話において、あるいは文学作品においてむやみに美化・複雑化していく一方であった言葉の用法が、賢治にとっては真実をゆがめ遠ぎける要因であったと考えられたにちがいない。そこで言葉の無力さを助長せしめている悪習を一掃して、限りなく凡庸で且つ限りなく内心に忠実な、ただありのままを記しありのままを理解させようとする表現方法を確立しさえすれば、言葉以上の言葉、つまり<超言葉>とでも言うべきものが獲得できると信じられたのである。

 ブルーストの『失われた時を求めて』でマドレーヌの味だとか庭の石につまづいた体験だとかが主人公の過去を瞬時にとりもどしたように、賢治の心象スケッチは(賢治自身にとってよりむしろ)読者にとってのマドレーヌなり石なりであろうとしたのである(4)。一読するだけで心象スケッチ筆記者の体験のすべてが読者の心におしよせてきて、それが自分の体験であるか筆記者の体験であるか、今体験していることか、かつて体験したことなのか、そんなこともわからなくなつてしまうほどの圧倒的な文を賢治は書きたかつたに相違ない。

 もし賢治の生活が心象スケッチによって全的に読者に回復されたとするならば、宇宙が一つの生命体でなりたっているという法華経の根本思想どおり、読者と賢治とは一体になり、その宇宙説も垣間見せられることになると信じられたのてある。そしてこの心象スケッチの言葉が腎治の思い通りに作用し、その文法が正しく把握されたとき、言葉はより完全なものにむかって一歩前進したことになるはずであった。

 

 賢治の心象スケッチの発端は、父や保阪案内を法華経に入信させることができなかった現実的な苦悩にあった。その時実感させられた言葉の不完全さから、完全なコミュニケーションとして希望されたのは、テレパシーの能力であった。しかしテレパシーの狸得を得ち望んでいるだけでは問題は何も解決しない。そこで言葉を使っているだけという絶望的な状況から<超言葉>の獲得が目標とされ、その時に心象スケッチという手法が言語とテレパシーの中間的存在として夢みられたのである。具体的な方法は、従来の文学作品や学校作文のようなよそゆきの美文・擬古文等を廃し、ただ理解させるだけのためにあるような凡庸な口語を用いて、自分の内面を忠実に言語化することであった。だからぶっきらぼうでおそらく当時としては<非文学的>であったような言葉が選ばれたり、あるいはしばしば不思議な内容の記述に及んだが、実はそれも戦略なのであった(5)

 自ら心象スケッチのことを「機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く」「さまざまの生活」の記録であると言っているように、内容はメモ、日記、綴り方的なものに近かった。が、もしも賢治の作品に特異性を認めるならば、それは彼のとらえた<ありのまま>の人間なり自然なりが、新しい様相を帯びた<ありのまま>の世界として多くの読者に新鮮な価値観の変動を体感させたことであると言えよう。

 賢治の作品の言葉も内容も、自分の思想・信仰が一般性のないオリジシナルなものなのではないかという恐怖に近い思いから始まった。しかし不幸にもその試みは宮沢賢治のオリジナリティーをより突出させる結果となり、日本文学史に名を残すことになったのである。

 

(1)「銀河銑道の夜」には、そのほかにもテレパシーを思わせる表現がある。例えば「するとこんどは、前からでもうしろからでもどこからでもないふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションときこえました。そしていよいよおかしなことは、その語が、少しもジョバンニの知らない語なのに、その意味はちやんとわかるのでした。(初期形)」という部分である。

(2) これらの部分は校本全集以来初期形と呼ばれ、つまり賢治は最終的形体としてこの構成をとることを拒絶したと解釈されている。たとえば他の部分に頻出する「セロのやうな声」という記述はテクストを綿密に調べた結果、ほとんど全部削除されていたことが解った。また、ブルカニロ博士も「あのブルカニロ博士」とはじめて登場する人物なのにもはや紹介済みであるかのようにしてあらわれている。『銀河鉄道の夜』のテクストには何ヶ所か原稿のノンブルがとんでいる部分があるが、ブルカニロ博士が初めに登場する場面は位層や内容からいっても賢治によつて破棄された部分のうちのひとつにあったことが明らかにされている。ジョバンニが夢からさめるシーンがいままでは二ケ所あって混乱の要因になっていたが、黒い帽子をかぶった大人とブルカニロ博士の出てくる方は今言った理由からも破棄されるべき意向にあり、新しい原稿(後期形)が生まれた時に存在意義をすでに失っていたのだとする解釈がなされるようになった。磯貝英夫(「銀河鉄道の夜 賢治童話の<解析> 改稿の周辺」『国文学』 昭和五十七年二月 学燈社)は、初期形は削除きれるべきところだつたと言ってしまえば合理的だが、実際その部分は破棄されるどころか抹消線さえひかれていなかったという事実を重くみて、そこに賢治の迷いがあったのではないかとしている。

(3) 大正八年秋の保阪嘉内宛書簡には「もう一度読んで見ると口語と文語が変にまじってゐます これが私の頭の中の声です 声のまゝを書くからかうなったのです。」とあって、賢治にぴったりあてはまつた文字言語は文語でも口語でもなかったことがわかる。また心象スケッチでも文語の影響からまつたく自由になっているとは言い難い。であるから、賢治の作品に口語自由詩の名をあてはめるのは厳密に言うと正確ではない。

(4) この点については、天沢退二郎(「宮沢賢治の彼方へ 新増補改訂版」 昭和六十二年 思潮社 ただし初版は昭和四十三年)が触れていて、賢治も「ある意味でプルーストーの「匙のたてる普」(「サント・ブーヴに反駁する」の中で、プルーストが旅の途中に列車の窓から見える風景をそのまま書きつけようとペンを走らせたが、結局、その日の記憶をその一日それ自体として思い出すことはできなかった。ある日、皿の止に匙を落したら、その時に旅の一日の記憶がよみがえった。匙の音が転敵手が列車の車輪をたたく時の槌の音と同じものを再現したのである。と述べていることをふんでいる。)に相当するものをさがし求めていたことは確かである。」と言っている。少しく見解は異なっているようであるが、多いに参考になったことを記しておきたい。

(5) 忘れてならないのは、心象スケッチが文芸性を全く廃してしまったわけではなかったということである。先に挙げた森佐一宛書簡では続けて「あの篇々がいゝも悪いもあったものでないのです。私はあれを宗教家やいろいろの人たちに贈りました。その人たちはどこも見てくれせせんでした。「春と修養」をありがたうといふ葉書もきてゐます。出版者はその体裁からバックに詩集と書きました。私はびくびくものでした。亦恥しかったためにブロンヅの粉で、その二字をごまかして消したのが沢山あります。辻潤氏 尾山氏 佐膝惣之助氏が批評して呉れましたが、私はまだ挨拶も礼状もかけないほど、恐れ入ってゐます。私はとても文芸だなんといふことはできません。そして決して私はこんなことを皮肉で云ってゐるのではないことは、お会ひ下されば、またよく調べて下されば判ります。そのスケッチの二三篇、どうせ碌でもないものですが、差し上げようかと思ひました。そしたらこんどは、どれを出さうかと云ふことが、大へんわたくしの頭を痛くしました。これならひとがどう思ふか、ほかの人たちのと比較してどうだらうかなどといふ厭な考がわたくしを苦しめます。」と書いている。一見すると詩と解されることへの嫌悪感にあふれているようにも見えるが、詩の同人誌に参加する意図があったこと、詩として評価した人々に礼状を書こうとしていること、ほかの人たちの作品、つまりほかの人たちの「詩」との比較を気にしていること等々、決して心象スケッチを詩と相入れないものだとは考えていないのである。賢治は短歌から創作活動をはじめて『アザリア』等の同人になったのであるし、短歌から次第に心象スケッチの書き方に移行していった形跡もあるようだから、文学について無関心だったり、対抗心をもっていたとは考えにくい。