鉄道ファン・宮沢賢治 大正期・岩手県の鉄道開業日と賢治の動向 訂正あり

信時 哲郎 (2007/3/29 ver.3)
 宮沢賢治の作品には鉄道が多く登場する。「銀河鉄道の夜」を初め「シグナルとシグナレス」、「氷河鼠の毛皮」などの童話作品、「青森挽歌」や「岩手軽便鉄道の一月」、「ワルツCZ号」等々の詩篇、中学校時代から書き始められた短歌や『春と修羅』の習作とも言える「冬のスケッチ」、さらに晩年に病床で書き溜められた「文語詩稿」にも鉄道は頻繁に登場する。
 そんな賢治であるから、彼を「鉄道好き」と書く評者は少なくない。しかし賢治のことを今日で言うところの「鉄道フアン」や「鉄道マニア」、「鉄ちやん」と同列に扱おうとする論考には、未だに出会ったことがない(1)
 かく言う筆者はごく軽度の鉄道ファンに過ぎないが、キハ81系の勇姿を見たいというだけの理由で、当時住んでいた千葉県茂原市から名古屋まで旅をしたことがあるし、国鉄が全国の主要駅に置いていたディスカバー・ジャパンのスタンプを押したいというだけの理由で途中下車をしたり、旅程を変えたり…‥ といった経験が何度もある。理解できない人には、まったく理解のできない馬鹿げた行為に思えるかもしれないが、鉄道とは単に「手段」ではなく、それ自体が十二分に「目的」となりうるものなのである。
 賢治は岩手県内の山野を歩き回った。それは自然科学的な興味や請け負った仕事の都合、あるいは書くことへのこだわりからであるという風に解されてきた。それを全面否定する気はないが、鉄道に乗りたいがために敢えて用事を作ったという側面もあったのではないだろうか。つまり鉱物の採集や見学、創作の方が手段であり、鉄道に乗ることの方が目的である旅も多かったように思うのである。
 東北本線が開業したのは明治二四年。これによって東北の政治・経済・文化が大きな変貌を遂げたことは、段裕行が指摘しているとおりだが(2)、これは賢治が生まれる以前の話であり、この交通革命をまさに「革命」として体験したのは、賢治ではなく、むしろ関西や四国にまで出向いて古着の買い付けをしたと言われる父・政次郎(明治七年生まれ)の世代であろう。
 しかし、だからと言って、賢治の世代にとっての鉄道の「意味」が、政次郎の世代と比べて薄れてしまったわけではない。賢治の青春時代は、岩手軽便鉄道(現・釜石線)が花巻を基点に東進を続けた時代と一致しているからである。県内の鉄道網が次第に整備されていく様子を見るのは当時の岩手県民の誰にとっても喜ばしい、誇らしいことであったはずである。そんな鉄道発展時代に青春時代を送った賢治が鉄道ファンになったのは、ごく自然な成り行きではないだろうか。
 昭和二六年、内田百閒は「用事がなければどこへも行つてはいけないと云ふわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」と書いて阿房列車シリーズを始めるが(3)、それが好評を博したということは、百閒に共感する人が多かったことを示していよう。だとすれば、百閒の同時代人たる賢治(七歳年下)が、用事もないのに汽車に乗ったというのは、それほど突飛な行動であったとは言えないだろう。
 実際、昭和三年には『趣味と文化叢書 汽車と地下鉄道の新知識』 (子供と文化社)なる本が出版され、昭和八年には『鉄道趣味』なる雑誌も創刊されている。大正から昭和初年にかけて、鉄道は実用を越えて、それ自体が目的として、趣味として認識され始めたようである。

 明治三九年、鉄道国有法が公布されると、全路線の営業距離のうち三二・〇%でしかなかった国有鉄道は全路線の九〇・九%を占めるようになった。すると中央では、地方鉄道に対する関心が薄れ、時の鉄道大臣・後藤新平は鉄道の広軌改築論(既設の鉄道のゲージ幅を一〇六七ミリから欧米の標準サイズである一四三五ミリに改築し、輸送量増やスピード・アップを図ろうという政策)を展開するようになる。「改主建従」と呼ばれたこの政策の台頭は、地方における鉄道網の整備という声を吹き飛ばすものであった。
 しかし、鉄道が幹線だけで成立つものでないこともまた事実である。政府も鉄道開設(事実上、地方の支線建設を意味する)がめっきり少なくなった状況を憂えて、明治四三年には鉄道開設の規格を下げ、申請の手続きも簡略にした軽便鉄道法を出し、翌年にはこれに手厚い保護を加える軽便鉄道補助法を公布することとなった。その結果、明治末年/大正初年は軽便鉄道の認可申請を求める動きが全国的に広がり、明治四四年には一七六二キロ、明治四五/大正元年には一六三〇キロ、大正二年には一四六八キロに免許が下りることとなった。岩手軽便鉄道もこの中に名を連ねている(もちろん、この時の申請のとおりに開業にこぎつけられなかった路線もたくさんある)。
 岩手軽便鉄道は、明治四四年に時の岩手県知事・笠井信一が建設を呼びかけたもので、創立委員長として金田一勝定が約一万五百株の株式を募集すると、一万六千もの応募があったという(賢治の母方の祖父・宮沢善治も創立委員に名を連ね、三五〇株所有していた)。ただ、岩手軽鉄の株式に人気が集まったのは、かつての鉄道建設ブームの時とは違って、投資目的の人気ではなく、「全県血行不良」(4)と報じられるほどに県内、ことに内陸部と海岸部の連絡がむずかしかった現状をなんとかしたいという理由がほとんどであったようである(5)
 岩手軽鉄は難工事のために、建設経費は当初の計画を大幅に上回り、大正二年十月二五日に営業を開始するが、区間はわずかに花巻~土沢間の約十三キロでしかなかった。大正四年十一月二三日に全線が開業するが、ついに急勾配の仙人峠を越すことはできず、この峠を越えて太平洋岸の釜石に行くためには、荷物は索道によって、人は歩いてここを越えるしかなかった(花巻~釜石間が鉄路で結ばれたのは昭和二五年十月)。おまけにゲージは七六二ミリ、スピードも「とび乗りのできないやつは乗せないし/とび降りぐらゐやれないものは/もうどこまででも連れて行(「岩手軽便鉄道の七月(ジャズ)」)くと書かれるほどの遅さ(時速十五キロ)であった。
 しかし、軽鉄によって内陸部と海岸部の物資や人の流れが迅速、安全、安価になったことは確かで、全県に及ぼした影響ははかりしれない。「軽便」という名称や軌道の狭さ、速度の遅さ、あるいは「シグナルとシグナレス」における描かれ方などからマイナー視するむきもあるかもしれないが、岩手軽鉄は岩手県民の誰にとっても有益で、ありがたい路線であったということは忘れられてはならない。

 賢治は盛岡中学在学中に短歌の創作を始めたが、上級学校への進学が父の許すところとならず、花巻の自宅で悶々としていた大正三年四月、鉄道を詠んだ短歌を数首残している。

 思はずもたどりて来しかこの線路高地に立てど目はなぐさまず(174)
 風ふけば岡の草の穂波立ちて遠き汽車の普もなみだぐましき (178)
 はだしにて夜の線路をはせ来り汽車に行き違へりその窓明く (180)
 鉄橋の汽車に夕陽が落ちしとてこ~までペンキ匂ひくるなり (189)
 停車場のするどき笛にとび立ちて暮れの山河にちらばれる鳥 (207)
   これらがどこで詠まれたものか、どこの鉄道を詠んだものかは推定するよりないのだが、「高地」や「岡」、「鉄橋」という言葉があることから、花巻町内の岡の部分を通り、長い鉄橋で瀬川を越えるルートをとっていた岩手軽鉄がモデルであると思われる。もちろん東北本線を詠んだ歌も含まれているかもしれないが、大正三年四月と言えば、岩手軽鉄が開業してからまだ日も浅く、盛岡から花巻に戻ったばかりの賢治には、軽鉄の汽車はことさらに目新しく、まぶしく映ったのではないだろうか。
 賢治は大正四年八月二九日に、盛岡高等農林の友人であった高橋秀松に「今朝から十二里歩きました 鉄道工事で新しい岩石が沢山出てゐます」と書き送っている。「石こ賢さん」の面目躍如たる書簡だが、遠野から書き送られているということから考えると、賢治は花巻から遠野まで(約四六キロ)を歩きとおしたことになる。その途中で、岩手軽鉄の最後の工区である岩根橋~柏木平の区間を歩いたのだろう。後述するとおり、賢治は鉄道工事の現場にもよく足を運んでいたので、この時の目的も、鉱物の採集ではなく、本当は軽鉄の最後の工事区間を見届けることであったように思う。
 大正六年七月に、賢治は東海岸実業視察団に加わって岩手軽鉄社長の三鬼鑑太郎をはじめとした花巻町の実業家たちと共に釜石・宮古を訪れている。賢治が旅先から友人の保阪嘉内に書き送った書簡には「この群と釜石山田いまはまた宮古と酒の旅をつゞけぬ」、「蕩児らと宮古にきたり夜のそらのいとゞふかみに友をおもへり」といった歌があり、彼らと行動を共にすることに嫌気がさしているように思える。賢治が「酒の旅」を嫌ったというのは、いかにもありそうなことに思えるが、この旅自体を嫌ったのかといえば、そうではないだろう。賢治は盛岡高農・農学科の北海道見学旅行に参加せず、こちらに参加しているからだ。花巻の実業家であった父の顔を立てるためにいやいや参加したと考えることはできるが、いくら政次郎が息子に厳しかったとしても、高等農林の見学旅行をキャンセルさせてまで視察団への参加を迫ったとは考えにくい。視察団の目的は「軽鉄の全通と共に花巻町有志の頭には、一度東海岸を視察し度い」(『岩手日報』・大正六年七月二十八日)であったというが、賢治自身にも「軽鉄の全通」を機に「東海岸を視察し度い」という強い意志があったのだと考える方が自然であるように思う(6)

 賢治が岩手軽鉄を愛していたことは、この他にも「銀河鉄道の夜」をはじめとした多くの作品に登場することからも明らかだろう。ただ、賢治が愛したのは岩手軽鉄だけではない。
 大正七年に政友会の原内閣が成立すると、後藤新平以来の「改主建従」政策から「建主改従」政策の方に勢いが出てくる(原も後藤も岩手県の出身だが主張は逆だった)。翌八年には鉄道院総裁・床次竹二郎が広軌改築計画の中止を表明し、地方鉄道法が公布された。政友会の政治的な基盤が地方にあったため、建主改従路線に転換することによって党勢拡張を狙ったのである。
 大正十年、政友会が帝国議会に上程した鉄道施設法改正案によると、予定線路は一四九路線。約一〇〇〇〇キロに及ぶ建設計画を打ち出している。もちろんすべてが建設されることにはならなかったが、この時の案に基づいて採算や必要性を度外視して建設された路線が、後に国鉄の赤字路線になっていくわけである。
 こうした「我田引鉄」の動きは、現代にまで尾を引く政治的にも経済的にも誠に困ったものであるが、鉄道ファンであった宮沢賢治にとっては、どうも胸の躍るできごとであったようだ。

 大正十年一月。賢治は質・古着商の店番に厭き、また父親の宗旨にも反対していたために家出上京するが、秋口に故郷に戻ると、さっそく同年の六月二五日に開業したばかりの橋場軽便線(現・田沢湖線)に興味を抱く。童話「狼森と笊森、盗森」は大正十年十一月に書かれているが、舞台は小岩井農場の近辺。つまり賢治は、開業直後の橋場線に乗って、童話の舞台に出かけたことが判明する。
 『心象スケッチ 春と修羅』は大正十一年一月六日の日付を持つ「屈折率」「くらかけの雪」に始まるが、これらの作品の舞台も小岩井農場の近辺。つまり賢治は、またもや橋場線に乗ってスケッチに出向いたことがわかる。
 ところで賢治は、この時、心象をスケッチするためだけに花巻から汽車を乗り継いで行ったのかというと、どうもそうではないようだ。と言うのも、大正十一年八月上旬に書かれたとされる「化物丁場」という短編に、この日、賢治が橋場線に乗った理由が暗示されているからだ。
 「化物丁場」は、賢治とほぼ等身大の主人公が東横黒軽便線(現・北上線)の車内で、乗り合わせた線路工夫から開業して間もない橋場軽便線の雫石~橋場間(大正十一年七月十五日開業)が、大雨のために不通となったことを聞くところから始まる。主人公が「あゝ、あの化物丁場ですか、壊れたのは」と口を挟むと、工夫は主人公が事情に通じていることを知って驚き、何度工事してもうまくいかなかった化物丁場での工事のありさまを語って聞かせるという話だ。
 これだけでも賢治が岩手県下の鉄道状況をかなり正確に知っていたこと、そして工事の過程にいたるまで把握しようとしていた鉄道ファンぶりを物語っているが、注意すべきなのは主人公が化物丁場を訪れたと言っている日付が「一月六七日頃」、つまり大正十一年一月六日か七日であったと語っていることである(作中人物と作者は別ではないか、というもっともな批判を受けるかもしれないが、「化物丁場」は物語というよりもエッセイ風の文章なので、両者の「混同」は、ある程度までは許されるものと思う)。これは「屈折率」と「くらかけの雪」が書かれた日である。多少おおげさに言えば、もしも賢治が橋場線の工事現場を見たいと思って吹雪の中を出かけることがなければ、『春と修羅』は書かれなかったかもしれない。

 このように「化物丁場」は、賢治の鉄道ファンぶりを物語る格好の作品であるが、そもそも賢治がなぜ東横黒軽便線に乗り込む必要があったのかといえば、「西の仙人鉱山に、小さな用事がありました」であるという。しかし、新米の農学校教師が鉱山と仕事上の関わりを持っていたとは考えにくい。
 東横黒軽便線は、元は馬車鉄道であった和賀軽便鉄道の後身で、大正十年三月二五日に黒沢尻~横川目間が開業。大正十年十一月十八日に和賀仙人まで開業したばかりであった。賢治は大正十一年八月、和賀仙人まで乗り、おそらくは和賀仙人~大荒沢間の工事現場(大正十三年十月二五日間業)を見に行ったのであろう。自然科学的な興味で赴いた可能性も否定できないが、「化物丁場」の内容にあるごとく、橋場線の工事にあれほどの関心を寄せ、大正四年八月には岩手軽鉄の工事現場にも足を運んでいたことを考えれば、伸び行く鉄道の工事現場を見ることこそが「小さな用事」であったと考える方が自然だろう。

 大正十二年七月三一日~八月十二日まで、賢治は教え子の就職依頼と農業用の資料や標本の採集のために北海道と樺太を訪ねた。これは前年の十一月に亡くなった妹・トシの魂を追う旅でもあり、この時の文学的成果が「青森挽歌」や「オホーツク挽歌」、「樺太鉄道」であることは知られているとおりである。
 しかし、どれほど賢治が教え子思いの先生であったとしても、果たして二人の教え子の就職を依頼するために、一〇〇〇キロの彼方にある樺太まで出向くものだろうか?
 賢治を樺太まで行かせた理由は鉄道史と比較することによって見えてくる。つまり、大正十一年十一月一日に、宗谷本線の鬼志別~稚内間が開業しているのである(現在のルートとは別)。いや、それだけでは、わざわざ樺太にまで行こうとはしなかったかもしれない。決定的なのは宗谷本線の開業から半年後の大正十二年五月一目に、稚内と樺太の大泊を結ぶ稚泊鉄道連絡航路が開業したことだろう。賢治は稚泊(ちはく)航路が開業してわずか二ケ月後、夏休みに入ってすぐに樺太に向っているのである。
 妹の死で大きなショックを受けた賢治だが、こうした新路線開業のニュースは、鉄道ファンとして目ざとくチェックしていたようである。もちろん大泊からは、樺太鉄道に乗れるということも、大きな魅力だったに違いない。
 考えてみれば、『春と修羅』の「オホーツク挽歌」の章には五つの詩篇が収められているが、そのうちの四篇までが鉄道と密接に関わっているというのは、移動手段が鉄道であったからというだけではうまく説明がつかない。旅先よりも旅の過程の方を、これだけ丹念に書き込んだ詩人や作家が、賢治の他に、いったいどれだけいただろうか。

 年譜だけ、あるいは作品だけを見ると、なぜ賢治は、よりによってこの時、この場所に行かなければならなかったのかと思うことがよくある。しかし、賢治の一見すると突飛に見える行動のいくつかは、鉄道開業日のデータを横に並べてみるとその動機がわかってくるように思う。
 賢治が盛岡市の北東部にある外山高原を訪ね、外山詩群と称される作品群を作ったことはよく知られている。その第一日めの日付は大正十三年四月十九日だが、なぜその日に始まっているのかといえば、もちろん池上雄三の言うように、翌日が種馬検査日にあたっていたからなのだろうが(7)、それは表向きの理由であって(とは言っても、それは他者に対してのものではなく、むしろ自分で自分に言い訳するためのもの。例えば、服飾品を大量に買い込んだ女性が「これは自分へのご褒美だから」と自らに言い聞かせるような…)、もう一つの理由は、大正十二年十月十日に盛岡~上米内まで開業した山田線に乗ることであったように思う。夜通し外を歩いても大丈夫なギリギリの時期、それが翌年の春、四月十九日だったのではないだろうか(補注・論文発表後、四月十九日は土曜日で、当時、花巻農学校では六時間目まで授業があったので、授業の後に山田線に乗るのは時間的にむずかしいとの指摘を受けた。たしかにそのとおりだと思う。ただ、盛岡までの帰路に鉄道を利用した可能性は残っているので、文章はこのままでも「アリバイは成立する」と思い、本文には手を入れないことにする)。
 大正十三年十一月二三日に、賢治は「孤独と風童」という詩篇をものしている。作中に現れる「大荒沢」について、木村東吉は「花巻から山を西に越えた沢内山村の大荒沢を念頭においていた」としているが(8)、宮川恵佐巨と榊昌子は開業直後の横黒線の大荒沢のことを指すのだろうとしている(9)。十一月二三日というのは、東横黒線の大荒沢~陸中川尻までが十一月十五日に開業したすぐ後の日曜日である。もっと、ものものしく書けば、十一月十五日とは、横手から東進してきた西横黒線と黒沢尻から西進してきた東横黒線が陸中川尻で接続し「横黒線」が全通した記念すべき日、秋田県と岩手県がはじめて鉄路で結ばれた日だったのである(秋田県と岩手県を結ぶもう一本の路線である田沢湖線が全通するのは昭和四一年)。賢治がこの時、どこまで乗車したのかはわからないが、吹雪の中を横黒線に乗ったことだけは確かであろう。
 賢治が三陸に向けて旅立ったのは大正十四年一月五日。この時の成果には「異途への出発」や「旅程幻想」といった問題作が含まれている。何か深刻な思いを胸に秘め、賢治は汽車に乗ったようだが、なぜ行き先を三陸にしたのかは詩篇から窺うことはできない。そこで、またしても鉄道開業日を調べてみると、大正十三年十一月十日に八戸線の八戸~種市までが開業していることが判明する。内容がどれだけ深刻であろうと、第一の目的が鉄道に乗ることであるのは、樺太への旅と同じである。鉄道への思いは、喜びをも悲しみをも超えていたのである。
 『新校本全集』の年譜によると、大正十四年九月中旬の項に「入営中の清六から音信がないので病気ではないかと心配し、学校を休んで青森県鯵ヶ沢近郊の山田野演習廠舎へ向かう」とある。弟思いの一面を示すエピソードだが、これも鉄道開業日と並べてみると、なんとも微笑ましいエピソードであったことがわかる。大正十四年五月十五日に五所川原線(現・五能線)の陸奥森田~鯵ヶ沢間が開業しているからである。もっとも、この区間は十一キロにしか過ぎないので(前年に開業した区間と合わせても二二キロ)、鉄道に乗りたいという思いより、弟への思いの方が先行していたとすべきなのかもしれない。それにしても、わずか四ケ月前に開業したばかりの他県の路線の状況にも目を配っていたという意味では、やはりこれも賢治の鉄道ファンぶりを物語るものだと言っていいだろう。
 同じく『新校本全集』の年譜の大正十四年の「秋」という項に、「岩手県農業教育研究会が千厩で開催され、出席する」という記述がある。教員時代のことであるから、賢治はこうした会にもたびたび出席していたのだろうと思うが、年譜によれば、賢治が出席したのは、この一回だけであるようだ。では、なぜよりによってこの時だけ参加したのかと考えてみると、やはりその謎も鉄道開業日が解決してくれる。大船渡線の一関~摺沢までが、大正十四年七月二六日に開業しているからだ(10)
 三たび『新校本全集』の年譜に着目する。大正十四年十二月の項に「土曜日の深夜寄宿生に非常呼集をかけ、花巻温泉まで雪上行進をさせる」とある。一年生の阿部嘉右工門によると、「夜が明けると花盛館へ入って温泉に入り丹前に着かえて朝食をとった。代金は先生がはらってくれたらしくたいしたごちそうでした。帰りは電車にのりました。」とのことだ。ここで言う「電車」というのは大正十四年八月一日に開業した盛岡電気工業の花巻温泉線のことである。八月に開業した路線に十二月に乗ったというのでは、賢治が鉄道ファンであったということの証拠にはなりえないと思っていたが、よく調べてみると、八月に開業した当初は、変電所の完成が遅れたために電車を走らせることができず、やむなく岩手軽鉄の蒸気機関車を使用していたが、同年の十月に変電所が完成したため、電車が走り出したとのこと。つまり賢治が寮生たちに非常呼集をかけたのは、電化してから二ケ月めのことであったわけである。阿部の回想の最後に「帰りは電車にのりました」とあるのは、彼にとって、花巻温泉線の電車に乗ったのが初めてであったため、印象が強かったのだと思われる。おそらくは賢治先生の方も一緒で、真夜中に寮生を呼び集めた本当の理由は、新しい電車に乗ってみたいということだったのではないだろうか。
 大正十五年八月。賢治は妹シゲ、その長男である純蔵、末妹のク二を連れて八戸に赴いている。一年半前に、一人で訪れた八戸に、今度は身内とともに行くことにしたようだ。鉄道開業日を調べてみると、八戸線が大正十四年十一月一日に陸中八木まで延びていた。ただ、『新校本全集』の年譜の記述を読む限りでは、一行は陸中八木までは行っていないようである。だとすれば、たまたま八戸線の延伸直後に乗っただけなのかもしれないが、一人旅でないために、賢治が思ったとおりの行動がとれなかった可能性もあるので、ひとまずこれも賢治が鉄道ファンであった証拠の一つとして記しておくことにしたい。
 この後も東北地方にはどんどん新しい路線が生まれている。しかし、教職を辞した後の羅須地人協会時代には、さすがの賢治も、そう頻繁に鉄道に乗ってはいなかったようだ。その後の東北砕石工場でのサラリーマン時代には、逆に東北の各地をくまなく列車で移動していたが、この時の賢治の動向を鉄道の開業日と対照させることはしなかった。仕事で赴く先にも、自分の趣味を反映させていた可能性は十分にあるが、仕事が先行していたか趣味が先行していたかを確認するのが困難だからだ(11)
 さて、鉄道開業日と賢治の動向について、しつこく追いかけてきたが、誤解のないように今一度確認しておきたいのは、賢治は「鉄道ファン」だったのであって、決して「鉄道開業日ファン」ではなかったということである。開業直後の鉄道に乗りに行ったというデータを並べるのが、最もわかりやすく賢治の鉄道ファンぶりを示すと思ってやっただけで、新路線以外には関心を持たなかったと言いたいわけではない。それは鉄道に関連する言葉を含む作品、車窓から眺めた風景を書いた作品が相当な数にのぼることが証明してくれるはずだ。よって、本稿で取り上げなかった作品や動向についても、表向きの理由とは別に、鉄道に乗ることを目的とした場合はかなりあったとすべきだろう。例えば、賢治が何度も上京した理由の一つには、長距離列車の旅を楽しみたかったからだという思いは、少なからずあったはずである(くどいようだが、それだけが理由であったなどと言いたいわけではない)。
 いずれにせよ賢治が『春と修羅 第二集』の序で、教員時代を「愉快な明るいもの」として回想できる理由の一つに、「近距離の汽車にも自由に乗れ」たことを挙げている意味については、今一度、考えてみてみてもいいのではないかと思う。後掲の表にあるように、賢治が新しい鉄道路線に乗ったのは、教員時代に集中しているように見えるからだ。これは「ニワトリが先かタマゴが先か」という議論にもなりかねないが、読み過ごされてしまいそうなこんな句の背景には、案外、鉄道ファンとしての本音が覗いていたようにも思えるのである(12)

(1) 賢治が鉄道の時代に生きていたことに着目した論考はいくつかある。例えば、大沢真幸は「(鉄道網は)明治二十年代にネーションの範囲におけるネットワークとしておおむね完成した後、明治の末期に至ると―そしてより本格的には大正期に入ると―、ネーションの枠を越えて北方へと、あるいは大陸へと延長されていくのである。言うまでもなく、こうした鉄道の延長を象徴的に代表したのが「満鉄」と称された「南満州鉄道株式会社」である」として、「銀河鉄道の切符によって「どこにでも行ける」という空想に具体的な現実感を付与していた社会的な背景は、ネーションからの溢出の段階にある大正期の鉄道であったということを確認しておかなくてはならない」と書いている(「ブルカニロ博士の消滅」・『現代詩手帖』平成八年十一月)。また、段裕行は「東北に対して鉄道あるいは近代が持ったインパクトは、幹線鉄道においてこそ強く表れるように思われる。鉄道という場を舞台にして描かれる身体の変容もしくは身体の規律化の問題を、東北という点に力点を置くようにして改めて考えてみること。それが、ここからの作業の目的である」と書いている(「宮沢賢治と鉄道 植民地化された身体」・『昭和文学研究』平成十三年九月)。カルチユラル・スタディーズ的な手法を採用したこれらの論考から学ぶところは多いが、両者とも賢治と鉄道を考える際に、ただちに国家というマクロな視点に結びつけ、ミクロな視点、すなわち大正時代に岩手県下で鉄道建設が一つのピークを迎えていたことについての言及がない点は惜しまれる。
(2) 段裕行(前掲)
(3) 内田百閒「特別阿房列車」・『小説新潮』 (昭和二六年一月)
(4) 大正三年一月二十五目の『中外商業新報』の見出し。岩手県の沿岸地方は青森県と宮城県と海路を通じるのみで、陸路は事実上存在しないとレポートされている。
(5) 岩手軽便鉄道が全線開業した際に発行された植田啓次『岩手軽便鉄道案内』(成文社)には、「惟ふに吾岩手軽便鉄道の成立は、県民が交通機関の設備に対する熱烈な要望に胚胎し、其財力によりて発現せる県下唯一の開拓鉄道で、其成敗の関する所は、決して一私立会社の盛衰と同一視する事は出来ない」とある。
(6) 奥田弘「東海岸実業視察団」(『宮沢賢治研究資料探索』平成十三年十月  蒼丘書林)に、『岩手日報』に連載された東海岸実業視察団の記事が転載されている。七月三十日付けの同紙には「(釜石の歓迎会で)三鬼団長は釜石と花巻との歴史的関係から、延いて軽鉄完成の大原因の一は釜石湾頭の叫びなりし事、猶、今後の問題としては仙人峠通路の解決なりとし緩々所見を述べた」と書かれている。
(7) 池上雄三『宮沢賢治 心象スケッチを読む』(平成四年七月・雄山閣)
(8) 木村東吉『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(平成十二年二月・渓水社)
(9) 宮川恵佐巨『宮沢賢治 作品散歩』(平成十二年十二月・私家版)、榊昌子『宮沢賢治 「春と修羅 第二集の風景』(平成十六年二月・無明舎)。
(10) ちなみに、この大船渡線は別名を「なべつる線」ともいい、「我田引鉄」の典型として有名だ。大船渡線は東北本線の一関から気仙沼方面に向う路線だが、直線距離なら一関から千厩までおよそ八キロにしかならないのに、鉄道の路線では二六キロ。つまり、鍋の弦のように路線が湾曲している。この湾曲は政友会と憲政会の政争に原因があり、政治家の都合が利便性や経済性に先行した格好の例となっている。
(11) 例えば、東北砕石工場時代の鉄道へのこだわりを物語るものに「貴工場に対する献策(昭和五年初め?)」がある。賢治は「販路の開拓」として、「地質図と鉄道運輸図とを按じますと、貴工場としては、宮城県の大部分、岩手県の南半、(並に多分は山形県の北半)に宣伝なさるのが得策と存じます。将来の競争者としては、花釜線の鱒沢駅(恐くは十年後)横黒線の仙人(これは大敵ですが恐らくは五年後)八戸線の鮫附近、東北本線の福岡附近、福島県の南部のある地点位のものでありませう」という見解を披露している。
(12) 賢治の鉄道ファンぷりは、終生変わらなかったものと思われるが、ただ、晩年になると、さすがに我田引鉄的な鉄道政策には懐疑的になっていたようだ。新聞紙面にも「党臭たっぷりの鉄道新線計画」 (『東京朝日新聞』昭和二年十二月十五日)、「買収さるゝ各地方鉄道 その必要程度と沿線の事情について」 (『国民新聞』昭和三年一月十九日)といったタイトルが見られるようになった時代である。例えば賢治は、昭和四年に鉄道大臣の小川平吉による鉄道疑獄事件がおこると、それをモデルに「疑獄元兇」を書き上げ、また、晩年に清書された『文語詩稿 五十篇』の「〔いたつきてゆめみなやみし〕」には「その線の工事了りて、あるものはみちにさらばひ、/あるものは火をはなつてふ」と、鉄道工事に多くの朝鮮人工夫を使っておきながら、用が終わると解雇してしまう酷薄さを書いている。

大正期・岩手県の鉄道開業日と賢治の動向(北海道・青森・秋田を一部含む)
開業日 鉄道名 区間 作品など 作品日付など
大正2年10月25日 岩手軽便鉄道 花巻―土沢    
大正3年4月16日 岩手軽便鉄道 土沢―晴山 「思はずもたどりて来しかこの線路高地に立てど目はなぐさまず」などの短歌。 大正3年4月(浪人中)
大正3年4月18日 岩手軽便鉄道 遠野―仙人峠(貨物)    
大正3年5月1日 岩手軽便鉄道 仙人峠(索道)    
大正3年5月15日 岩手軽便鉄道 遠野―仙人峠(旅客)    
大正3年12月15日 岩手軽便鉄道 晴山―岩根橋    
大正3年12月15日 岩手軽便鉄道 鱒沢―遠野    
大正4年7月30日 岩手軽便鉄道 柏木平―鱒沢 「鉄道工事で新しい岩石がたくさん出てゐます」→12里歩く(花巻ー遠野)。 大正4年8月29日(高橋秀松宛)
大正4年9月17日 花巻電気軌道 西公園―松原    
大正4年11月23日 岩手軽便鉄道 岩根橋―柏木平 農学科の北海道見学旅行に参加せず東海岸視察団に加わって、釜石・宮古へ。 大正6年7月25~29日
大正5年9月26日 花巻電気軌道 松原―松倉    
大正6年12月28日 花巻電気軌道 花巻―西公園    
大正7年1月1日 花巻電気軌道 西公園―花巻    
大正8年9月27日 花巻電気軌道 大沢温泉―鉛温泉    
大正9年4月27日 花巻電気軌道 松倉―志度平温泉    
大正10年3月25日 東横黒軽便線 黒沢尻―横川目    
大正10年6月25日 花巻電気軌道 鉛温泉―西鉛温泉    
大正10年6月25日 橋場軽便線 盛岡―雫石 大正10年11月に「狼森と笊森、盗森」を執筆。大正11年1月6・7日に工事中の「化物丁場」を実見。 大正10年夏、東京から戻る
大正10年11月18日 東横黒軽便線 横川目―和賀仙人 「化物丁場」によれば仙人鉱山に「小さな用事」があって出かけている。 大正11年8月はじめ?
大正11年7月15日 橋場軽便線 雫石―橋場 「化物丁場」では7月31日の大雨で橋場線が普通になったことに言及。 大正11年8月はじめ?
大正11年8月27日 花輪線 好摩―平館    
大正11年11月1日 宗谷本線 鬼志別―稚内 「生徒の就職依頼のため」に北海道・樺太旅行。 大正12年7月31日~8月12日
大正12年5月1日 稚泊航路 稚内―大泊 「生徒の就職依頼のため」に北海道・樺太旅行。 大正12年7月31日~8月12日
大正12年5月5日 花巻電気軌道 松倉―大沢温泉    
大正12年10月10日 山田線 盛岡―上米内 外山行。〔どろの木の下から〕・〔いま来た角に〕・「有明」など。 大正13年4月19・20日
大正13年10月25日 横黒線 和賀仙人―大荒沢    
大正13年11月10日 八ノ戸線 八戸―種市 三陸紀行。八戸から種市を経て宮古方面へ。 大正14年1月5日~9日
大正13年11月15日 横黒線 大荒沢―陸中川尻 「孤独と風童」に「大荒沢やあっちはひどい雪ですと/ぼくが云ったと云ってくれ」。 大正13年11月23日
大正14年5月15日 五所川原線 陸奥盛田―鰺ヶ沢 入営中の弟から音信がないので、学校を休んで出かける。 大正14年9月
大正14年7月26日 大船渡線 一関―摺沢 岩手県農業教育研究会が千厩で開催され、賢治も出席。 大正14年秋
大正14年8月1日 盛岡電気工業 西花巻―花巻温泉 教え子たちと雪中行軍で花巻温泉へ。「帰りは電車にのりました(阿部嘉右エ門)」。 大正14年12月
大正14年11月1日 八戸線 種市―陸中八木 妹のシゲと長男・純蔵、クニと八戸へ旅行。種差まで? 大正15年8月
大正14年11月1日 花巻電気軌道 大沢温泉―西鉛温泉
大正15年11月10日 花輪線 平館―赤坂田