「どんぐりと山猫」論   ──改革者としての学童──

信時 哲郎


 「どんぐりと山猫」は、従来<このなかでいちばんばかで、めちやくちやで、まるでな つてゐないやうなのがいちばんえらい>という一郎のどんぐり裁判における申し渡しを中 心に読まれ、後年の<デクノボー>の思想と併せて論じられることが多く、それは今日で も十分に説得力を持つものだと言える(1)。しかし池上雄三氏も言うように、一郎の言葉は <この場面(裁判の場面)では生きているものの作品の全体をおおいつつむものではな く、そのことばによって作品が貫ぬかれてもいない>のも事実である(2)。申し渡しだけが重 視される背景には、<必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響 です(引用文中の誤記・誤植は訂正。以下同じ。)>という賢治自身の説明があるのだろ うが、工藤哲夫氏も言うように、一郎はあくまで<お説教できいた>ことを引用しただけ であって、<いまの学童>が<内奥から>無意識的に引き出したのだとは考えにくい(3)。 とっさに答えたということに無意識性は認められても、その内容に無意識性を見出すこと は難しい。そこで賢治の説明文中で今まで見落とされてきた<いまの学童たち>という言 葉を分析することから、「どんぐりと山猫」を読んでみることにしたい。

1.

 賢治が童話制作に手をつけはじめたのが大正7年ごろ。猛烈なスピードで執筆するよう になったのは、大正10年の家出上京中に国柱会講師の高知尾智耀の奨めにより<法華文学 ノ創作>を志してからのことだとされている。「どんぐりと山猫」の制作日付は、妹の発 病の知らせを聞いて帰花した後すぐの大正10年9月19日で、12月の稗貫農学校就任にはま だ間があるが、木佐敬久氏はこの時期に賢治が農学校への就職活動をしていたとして、 「どんぐりと山猫」を学校を扱った物語であるとする。そうして木佐氏は主人公の一郎に 教師としての賢治を、そしてどんぐりたちに生徒を見るのだが(4)、制作日付にこだわりすぎ ているうらみがある。童話集『注文の多い料理店』が自費出版されたのは大正13年12月で あり、下書き稿こそ現存しないものの、その完成度の高さからして、この三年の間に十分 な推敲がなされたのはまず間違いない。もちろん法華経の布教をねらった内的な執筆動機 や、<この通りその時心象の中に現はれたもの(広告文)>だという物語の核になる部分 こそ変わらなかったと思われるが、教育者としての立場から<多少の再度の内省と分析( 同)>が加えられたと考える余地は十分に残されているのである。
 賢治は在京中から童話を執筆していたとは言うものの、本物の学童に出会ったのは、実 はこの時が初めてだったのである。序文(ただし日付は童話集の刊行より一年早い大正12 年12月20日になっている)や広告文に窺える子供観や童話観、例えば広告文にある<純真 な心意の所有者>の代表としての子供と、<卑怯な成人>との対立図式には、現場の教師 としての切実な実感が込められていたとは考えられないだろうか。
 賢治は大正10年12月稗貫農学校の教師となり、斬新な授業をしたと伝えられる。例えば 大正13年卒業の松田奎介氏は<先生の授業ぶりはほとんど教科書に重点をおかず、その教 え方も自由自在で、まったく天馬空を駆けるとでもいいたいほど自在さをもっていた>と して、<宮沢先生の教え方は一言で申せば、私たちの自覚を呼び起こすことではなかった か>と述べている。また大正14年卒業の平来作氏は<時間があればいろいろと応用問題を 出され、「これは実際問題ですよ」、そして「考えてごらんなさい」というのが次に出て くる言葉であった>と言うが、これらの証言は賢治が生徒の自主性を尊重した授業をして いたことを示しているだろう(5)。こうした証言から賢治の教育者としての天性の資質を感じ ることができるが、彼が大正新教育運動の影響を受けていたこともまた否定できない。
 大正時代はさまざまな分野でデモクラシーが叫ばれた時代だが、教育界も例外ではな かった。大正期は<教師本意の「教授」から児童本意の「学習」へのコペルニクス的転 回>(6)が全国的に展開された時期で、それまでの教育が<画一的注入的臣民教育という絶対 主義的性格と、近代化(資本主義化)が要請する活動的な臣民の形成という両側面を>(7) 持った、大人本意・国家本意の詰め込み型であったのに対し、児童の個性・自主性を重ん じ、実生活に密着した問題を児童が自発的に提起し、作業を通じて真に納得できる結論を 導き出すというような方法が、各教科にわたって行われるようになったのである。こうし た教育方針に則って、成城小学校や自由学園・文化学院などの創立が相次いだほか、千葉 師範付属小・奈良女高師付属小などでも画期的な教育方法が実践されるに及んだ。
 賢治は農学校就任早々の大正10年12月に保阪嘉内に宛てて<学校で文芸を主張して居り まする。芝居やをどりを主張して居りまする>と書き送っていることから、かなり早くか ら大正新教育的なものを意識していたことがわかるが、具体的に証拠を挙げれば、彼が熱 心に取り組んだ学校劇は、新教育を代表するものであったし、『春と修羅』補遺にある 「自由画検定委員」は、栗原敦氏によれば、大正12年11月11日から15日に花巻川口町の花 城小学校で開催された「県下小学校児童自由画展覧会」に取材したものである(8)。自由画と いうのも新教育の新しい試みである。また鈴木三重吉の『赤い鳥』と賢治の関係は周知の とおりだが、同誌は童話や童謡だけでなく、自由画や綴り方でも先駆的な役割を果してい た。そのほか国語や図画教育の研究で全国的に知られていた岩手県師範学校付属小の佐藤 瑞彦氏とも早くから交流があり、賢治は『春と修羅』を贈ったほか、昭和3年に佐藤氏が 自由学園に転任する際の盛岡での送別会には、わざわざ花巻から出向いたという(9)。このよ うに教育界を中心とした<自由な学童の発見>は、同時に賢治における<自由な学童の発 見>でもあったと考えてよいだろう。
 しかしこの三年間を単に子供観や教育観が洗練された時期だとしてはなるまい。<法華 文学者>が<自由な学童>を発見したことこそが重要だと考えられるからだ。
 賢治が<純真な心意>を所有する読者を想定して童話を書いたということは、それが <どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である(広告文)> 何かを感じとることができると信じられていたということを意味する。そしてそれが賢治 にとって<わたくしにもまた、わけがわからない>とされながらも、<ほんたうにもう、 どうしてもこんなことがあるやうでしかたがないといふこと(序文)>であるとするなら ば、純真な読者たちとは、賢治にとって宗教的な同志だとみなされていたことを意味す る。従って賢治における<自由な学童の発見>とは、<同信者の発見>に、ただちにおき かえられる事件であったはずである。
 以上のことを踏まえると<必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥から の反響です>という説明文に、生徒に競争を強いる明治以来の日本の教育制度に対する大 正時代(いま)の自由な学童たちの批判を読むことができ、そこに宗教観(今のところそ れは純真さだとしか言えないが)を根底にした社会改革の意図を見てとることができる。
 では一郎の<内奥からの反響>とは具体的には何だったのだろうか。そこで説明文のも うひとつのセンテンスを読んでみたい。<山猫拝と書いたをかしな葉書が来たので、こど もが山の風の中へ出かけて行くはなし>とある。大藤幹夫氏が言うとおり、おかしなでき ごとに対して、それをおかしいと知りながらおおらかに肯定する子供たちの態度こそが <純真な心意>なのであるとすれば(10)、<をかしなはがき>に対して、立ち止まってその意 味するところを考えるどころか、<うれしくてうれしくてたま>らずに、<うちぢうとん だりはねたり>するところに、内奥からの声に忠実な一郎の姿を認めることができる。
 そうして一郎は<山の風の中>に出かけるが、<すきとほつた風がざあつと吹くと>栗 の木と自由に言葉を交わせるようになり、<草は風にざわざわ鳴>ると、馬車別当が立っ ている。<風がどうと吹いてきて、草はいちめんに波だ>つと、今度はそこに山猫が立っ ている。しばしば指摘されるように、風とは異界の指標であり、一郎の出かけるのが<山 の中>ではなく、<風の中>とされているのは、単に<山の中>という空間に立ち入ると いう意味だけでなく、異界に立ち入るということを強調しているからだと思われる。
 つまり説明文は、おかしなできごとに出会っても、意味を問うよりもまず<内奥>で反 応する一郎という学童が、その純真さの故におかしな世界(異界)に紛れ込み、大人たち の捏造した学校という制度を相対化する物語である、と読むことができる。

2.

 「どんぐりと山猫」では冒頭からいきなり異界の入り口が示され、一郎を手招きする。
 かねた一郎さま 九月十九日
 あなたは、ごきげんよろしいほで、けつこです。
 あした、めんどなさいばんしますから、おいで
 んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
                 山ねこ 拝
招待状でありながら、場所も時間も指定していない<をかしな>葉書である。一郎もこの <をかしさ>には気づいたはずだが、なによりも<うれしくてうれしくてたま>らないの だ。<をかしい>からといって相手を拒絶するよりも、心の内部から沸き起こる感情に 従って即座に行動すること、それが物語に一貫した一郎の行動原理である。未知の<山ね こ>なる存在についても、<にやあとした顔>を想像するだけで、一郎は<いそいでごは んをたべ>ると、<ひとり谷川に添つたこみちを、かみの方へのぼつて行>くのだ。
「栗の木、栗の木、やまねこがここを通らなかつたかい。」とききました。栗の木はち よつとしづかになつて、
「やまねこなら、けさはやく、馬車でひがしの方へ飛んで行きましたよ。」と答へまし た。
「東ならぼくのいく方だねえ、をかしいな、とにかくもつといつてみやう。栗の木あり がたう。」
こうしたやりとりは、さらに滝、きのこ、りすと交わされるが、それぞれ西、南、南とば らばらな答をされる。一郎はそれぞれ<をかしいな>とつぶやきはするが、結局<もつと いってみ>ることにするのだ。<ひとり谷川に沿つたこみちを、かみの方へのぼつて 行>った一郎は、<谷川にそつたみちは、もう細くなつて消えてしまひました。そして谷 川の南の、まつ黒な榧の木の森の方へ、あたらしいちいさなみちがついてゐ>ることを発 見するわけであるから、彼はせっかくの答をすべて無視する形で、自分の思い込みどおり 谷川に沿ったみちを進んでいたことがわかる。
 この問答の意味についていろいろな議論があるが、そもそも意味を問うことが<卑怯な 成人>の読みであったはずである。恩田逸夫氏によると、一郎は意味を問うたのではな く、山猫が通ったかどうかの確認を求めたのだとするが、氏も言うとおり<当初から、谷 川に沿った道をのぼる、とわかっている>一郎なら、確認を求める必要もなかったのでは なかろうか(11)。つまりここでなされているのは、問答でも確認でさえもなく、遊戯なのであ り、そこに一郎の純真さを窺うことはできても、意味の見出しようなどないのである。
 ではばらばらな答をしたものたちの側にはどんな論理があったのだろうか。恩田氏は一 見ばらばらに見えてもそれぞれが正確な答であって、山猫が朝早くから馬車で走り回って いたことを表すのだとする(11)。しかし<をかしな>ことずくめの異界に住むものたちに、 <論理>を求めるのも、また無理な話ではなかろうか。天沢退二郎氏が言うごとく、「ど んぐりと山猫」はナンセンス・テールなのであり(12)、内容については<わけがわからない (序文)>ところがあっても、そのまま読み進めるべきなのだ(13)。
 この後も一郎は<をかしな形の男(馬車別当)>に出会ったり、<をかしい>と思って 振り返ったところで山猫に出会ったりする。そして<をかしな形の馬>のついた馬車で自 分の家に戻ってくるわけで、終始<をかしさ>を感じ続けるのだが、ついにその意味を問 うことはない。それどころか<怖さ>が人をおばけ屋敷に誘うように、おかしさが一郎を 異界に誘っているようにも見える。
 次にどんぐり裁判について考えてみよう。ここでは裁判という言葉が連発されるわり に、厳粛さなどはおよそ見当たらず、どんぐりたちもみんな赤いずぼんをはいて<わあわ あわあわあ>言っているというのだから、寧ろ明るくも騒々しい小学校あたりの教室を思 わせる。<がらんがらん>と鳴らす鈴には、木佐氏も指摘するとおり、当時の子供たちな らすぐさま学校を連想したはずだし(4)、馬車別当の鳴らす鞭も、大正時代の詰め込み教育を 描いたと言われる童謡「すずめの学校」(大10 清水かつら作詞)の<むちを降り降りち いぱっぱ>を思い起こさせる。とすれば<裁判ももう三日目だぞ、いゝ加減になかなほり をしたらどうだ>という言葉も、本来そこが裁判をやるのにふさわしくない場所であった ことを示しているようにとれる。さしずめ山猫が先生で、馬車別当は用務員。どんぐりた ちが生徒というところだろうか。つまり「どんぐりと山猫」は異界の学校に、現実世界の 学童が訪ねる話。どんぐりたちの側からすれば、現実世界の学校に異界の学童が訪ねてく る話だということになり、それぞれ「雪渡り」や「茨海小学校」、「風の又三郎」といっ た作品の系列に属するものだということになる。岡屋昭雄氏は山口昌男氏の
境界には、日常生活の現実には収まり切らないが、人が秘かに培養することを欲する様 々のイメージが仮託されてきた。これらのイメージは、日常生活を構成する見慣れた記 号と較べて、絶えず発生し、変形を行う状態にあるので生き生きとしている。日常生活 の内側にあった記号でさえ、境界に押し出されると、意味の増殖作用を再び開始して、 新鮮さを再獲得する。
という説を援用して、一郎の申し渡しに既成の価値観に閉じこもっていたどんぐりや山猫 たちを解き放つ境界性があったと指摘し、一郎をトリックスター、つまり<創造者である と同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえ>た存在であるとみな している(14)。これを継承すれば、一郎の申し渡しに比較や競争に明け暮れる学校制度批判を 見出すことができるが、初めにも書いたように、一郎の申し渡しだけに作品を代表させる ことはできない。とにかく作品全体を見通してみる必要があるだろう。
 さてここでなぜ一郎に葉書が来なくなったかを考えることにする。これを巡ってさまざ まな論議があるが、例えばそれは一郎が遊びの世界に意味を持ち込んでしまったためだと か(15)、<えらくないものがえらい>などと言いながら、一郎は権力の象徴たる黄金のどんぐ りをもらいうけてしまったので、逆に山猫に裁かれたのだとも言われている(16)。ただなんと も不可解なのは、論者たちが一郎の元に初めて葉書が<来た>おかしさを問題とせず、二 度目の葉書が<来ない>おかしさばかりを問題としていることである。
   それからあと、山ねこ拝といふはがきは、もうきませんでした。やつぱり、出頭すべし と書いてもいゝといへばよかつたと、一郎はときどき思ふのです。
おかしさの前で立ち止まり考え込むというのは、<純真な>読み方であるとは言えまい。 しかし<卑怯さ>を持ち込んでしまったのは論者の責任ではなく、<やつぱり、出頭すべ しと書いてもいゝと言へばよかつたと、一郎はときどき思ふのです>という一郎の変化に こそあると言うべきだろう。なによりもここにおかしさに対して立ち止まって考え込んで しまう一郎の姿、大人になってしまった一郎の姿を読み取るべきなのである。つまり「ど んぐりと山猫」は、純真な一郎少年が、異界への旅を終えて大人になるという通過儀礼の 物語であったということができる(17)。

3.

 柳田国男の『山の人生』(大15)には、神隠しの話としてこんなものが載っている(18)。
愛知県北設楽郡段嶺村大字豊邦字笠井島の某という十歳ばかりの少年が、明治四十年ご ろの旧九月三十日、すなわち神送りの日の夕方に、家の者が白餅を造るのに忙しい最 中、今まで土間にいたと思ったのが、わずかの間に見えなくなった。最初は気にもしな かったが、神祭を済ましてもまだ姿が見えず、あちこちと見てあるいたが行方が知れぬ ので、とうとう近所隣までの大騒ぎとなった。方々捜しあぐんで一旦家の者も内に入っ ていると、不意におも屋の天井の上に、どしんと何ものか落ちたような音がした。驚い て梯子を掛けて昇ってみると、少年はそこに倒れている。抱いて下へ連れてきてよく見 ると、口のまわりも真白に白餅だらけになっていた。(略)気の抜けたようになってい るのを介抱して、いろいろとして尋ねてみると少年はその夕方に、いつのまにか御宮の 杉の樹の下に往って立っていた。するとそこへ誰とも知らぬ者が遣ってきて彼を連れて 行った。多勢の人にまじって木の梢を渡りあるきながら、処々方々の家をまわって、行 く先々で白餅や汁粉などをたくさん御馳走になっていた。最後にはどこか知らぬ狭いと ころへ、突き込まれるようにして投げ込まれたと思ったが、それがわが家の天井であっ たという。それからややしばらくの間その少年は、気が疎くなっていたようだったと、 同じ村の今三十五六の婦人が話をしたという。
これは<十歳ばかりの少年>が<誰とも知らぬ者>に連れて行かれたという話である。
徳田秋声君の家の隣家の二十歳ばかりの青年が、ちょうど徳田家の高窓の外にあった地 境の大きな柿の樹の下に、下駄を脱ぎ棄てたままで行方不明になった。これも捜しあぐ んでいると、不意に天井裏にどしんと物の墜ちた音がした。徳田君の令兄が頼まれて上 がって見ると、その青年が横たわっているので、背負うて降してやったそうである。木 の葉を噛んでいたと見えて、口の端を真青にしていた。半分正気づいてから仔細を問う に、大きな親爺に連れられて、諸処方々をあるいて御馳走を食べてきた、また行かねば ならぬといって、駆けだそうとしたそうである。尤も常から少し遅鈍な質の青年であっ た。
今度は<少し遅鈍な質の青年>が<大きな親爺>に連れていかれた話である。このように 日本全国に分布している神隠し譚には、何者かの誘いにのって、異界に紛れてしまうとい う共通点を持つものも多いが、その当事者はたいてい子供や精神薄弱者や女性であって、 いずれも共同体の周縁に位置付けられる者たちである。そうすると<おかしなはがき>の 誘いで<山の風の中>にはいっていく学童の物語である「どんぐりと山猫」も、一種の神 隠し譚であったと言ってよいだろう(19)。
 周知の如く賢治の作品の主人公にはこうした周縁的な人物たちが主人公に選ばれること が多い(20)。小松和彦氏は子供たちが神隠しに遭うことを通過儀礼だとして、そこに<共同体 からの離脱と子供の自立への主張>を読み取っている(21)。共同体から離脱することと、そこ で自立することとは一見矛盾するかに思えるが、反・共同体と汎・共同体の二つのベクト ルのちょうど間に共同体の周縁部分が位置するのである。先述の山口氏の言葉を再び援用 すると、共同体の周縁にいる人物は、周縁的であるが故に共同体の活性化に役立っている ということになるが、彼らは曖昧だからこそ共同体を批判することも、愛することもでき るのである(22)。賢治はその点に注目して共同体の現状の破壊と、理想的共同体の創造を彼ら に委ねたのではなかっただろうか(23)。
 ところで柳田の『山の人生』には、
運強くして神隠しから戻ってきた児童は、しばらくは気抜けの体で、たいていはまずぐ っすりと寝てしまう。それから起きて食い物を求める。何を問うても返事が鈍く知らぬ 覚えないと答える者が多い。それをまた意味ありげに解釈して、たわいもない切れ切れ の語から、神秘世界の消息をえようとするのが、久しい間のわが民族の慣習であった。
とあり、江戸時代の『神童虎吉物語』をはじめ、平田派の神道家が筆記した神隠し譚など を論じたあと、<各地各時代の神隠しの少年が、見てきたと説くところには、何一つとし て一致した点がない。つまりはただその少年の知識経験と、貧しい想像力との範囲によ り、少しでも外へは出なかったのである>とあっさり切り捨てている(18)。しかしこの柳田言 うところの<わが民族の慣習>こそ、賢治が全身全霊を込めて成し遂げようとした仕事の 内実であったように思えるのだ。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなほないゝ子供だ。よくあの棘の 野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を 行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たち が行ってゐる。よく捜してほんたうの道を習へ。」その人は一郎の頭を撫でました。一 郎はたゞ手を合せ眼を伏せて立ってゐたのです。
主人公の名前こそ同じでも、異界から生還する「どんぐりと山猫」の一郎と、あの世から 生還する「ひかりの素足」の一郎では、やはり距離がありすぎるかもしれない。ところが 「銀河鉄道の夜(初期形)」でも、
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに本統の世界の 火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかで たった一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしていけない。」
と、同じような設定が繰り返されている。いずれも「どんぐりと山猫」よりずっと重いト ーンの物語ではあるが、少年たちが異界(広い意味での)から生還する際に、共同体への 夢を託される通過儀礼の物語だという点ではほとんど同じである。つまり純真さの故に異 界を訪問し、現実に戻ってくる少年たちには、等しく改革者としての役目が背負わされて いるのだと言うことができる(24)。
 ここで童話集『注文の多い料理店』が<実に作者の心象スケッチの一部(広告文)>で あったことを思い出してみたい。賢治は心象スケッチを、
六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことにつ いてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした。わたくしはさう云ふ方の勉強 もせずまた風だの稲だのにとかくまぎれ勝ちでしたから、わたくしはあとで勉強すると きの仕度にとそれぞれの心もちをそのとほり科学的に記載して置きました。
と、大正14年12月20日の岩波茂雄宛書簡で説明しており、またその目的について、
私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度 に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件 の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀 な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画 し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考 へたのです。
と、同年2月9日の森佐一宛書簡で書いている。つまり異界(そのほかの空間)のできご とを<そのとほりに記載>することが、共同体の住人達の凝り固まった価値観を変える仕 度、つまり<歴史や宗教の位置を全く変換する>ための仕度なのだとすれば、異界の経験 を胸に秘めて共同体に戻ってくる少年たちと賢治とは、ほぼ等身大であったと言うことが できる。
 『注文の多い料理店』に収録された諸作は、『春と修羅』がそうであるように、制作日 付順に整然と並んでいるわけではない。考えようによっては「どんぐりと山猫」を冒頭に 持ち出すために順序を乱したとも考えられるのだが(25)、それは萬田務氏が言うように、物語 冒頭の<をかしなはがき>が一郎と読者とを異界に誘うのと同じように、巻頭に<をかし なはがき>を置くことで、<読み手をして童話集全体へ、そして非現実の世界へ誘う作者 からの招待状>とする意図を見るのは妥当だろう(26)。あるいは<をかしなはがき>の日付 を、わざわざ作品の制作日付と一致させたことから、この物語自体が一枚の葉書として書 かれたのだと言えるかもしれない(27)。
 天沢退二郎氏も指摘するように、賢治が生前刊行した『春と修羅』と『注文の多い料理店』のどちらにも、冒頭に郵便を扱った作品を置き(28)、また彼が不特定多数の人間に向けた 処女印刷物が[手紙]と仮題された諸作であることなどから、賢治における郵便の意味は 重要だと思われるのだが、普通の印刷物が一対多の関係で成り立つマス・メディアである のに比して、一対一で行われる郵便という形態をとることのうちには、恩田氏も言うよう に<人と人との心の通い合いを求め>、<その結びつきをさらに広く強くしたいという願 い>を窺うことができる(11)。それは一対一で生徒に向き合おうという教師宮沢賢治の姿勢と も一致すると言えるが、いずれにせよ一枚の葉書から書き始められているばかりか、一枚 の葉書として書かれた形跡もある「どんぐりと山猫」に、若き賢治の信仰に対する熱っぽ い思いと、その純真さの故に信仰をわかちあえると信じられた児童達への熱っぽい思いと を見ることができそうである。

(注)


1 佐藤勝治「「どんぐりと山猫」について」(『農民芸術・宮澤賢治特輯』昭23・8)など
2 池上雄三「宮沢賢治の求道と「イーハトヴ童話」の世界 「注文の多い料理店」の志向するもの」(『静岡英和女学院短期大学紀要』昭52・4)
3 工藤哲夫「デクノボウをめぐって 賢治試論」(『女子大国文』昭60・12)
4 木佐敬久「宮沢賢治とシベリア出兵 第三章 農学校就職のいきさつと帰郷後の文学」(『天秤宮』平4・2 天秤宮社)
5 佐藤成『証言 宮澤賢治先生 イーハトーブ農学校の1580日』(平4 農文協)
6 小原國芳編『日本新教育百年史 1 総説(思想・人物)』(昭45 玉川大学出版部)
7 河合章・安川寿之輔・森川輝紀・川口幸宏『日本現代教育史』(昭59 新日本出版社)
8 栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』(平4 新宿書房)など
9 佐藤瑞彦「岩手県」(小原國芳編『日本新教育百年史 3 北海道・東北』昭44 玉川大学出版部)
10 大藤幹夫「「どんぐりと山猫」 その「おかしな」世界」(『賢治・南吉研究』 平3・5)
11 恩田逸夫「賢治童話「どんぐりと山猫」試論」(『宮沢賢治論 3 童話研究他』 昭56 東京書籍)
12 天沢退二郎「アリス的世界・イーハトヴ  nonsense taleとしての賢治童話」(『《宮沢賢治》鑑』昭61 筑摩書房)など
13 尤も萬田務氏も言うように、作品がナンセンスを含むということと、作品自体がナンセンスだということは次元の違う問題である。「宮沢賢治童話集『注文の多い料理店』試論」(『橘女子大学研究紀要』昭54・2)
14 岡屋昭雄「宮沢賢治論 説話の宇宙」(『香川大学教育学部研究報告』平4・1)・山口昌男『文化と両義性』(昭50 岩波書店)・同『トリックスター』(昭49 晶文社 ただし表紙カバーからの引用のため未見)
15 松田司郎『宮沢賢治の童話論 深層の原風景』(昭61 国土社)
16 萬田務「『どんぐりと山猫』ノート」(『賢治研究』昭48・8)など
17 斎藤寿始子氏は民俗学的知見を生かしつつ「どんぐりと山猫」を分析し、一郎が山に<行って>試練を受け、そうして里に<帰る>という通過儀礼の物語だとしている。ただし<命賭けの厳しい試練>というのは少しおおげさではなかろうか。「宮澤賢治「どんぐりと山猫」論 童話集『注文の多い料理店』をめぐって」(『大谷学報』昭63・6)
18 柳田国男『遠野物語・山の人生』(昭51 岩波文庫)
19 神隠しという名を与えるのは、いつも共同体の住人であるから、共同体の視線を欠いた「どんぐりと山猫」は神隠しではないという批判もあるかもしれない。しかし一郎が自らの経験を<ときどき>思い出すということは、自分が神隠しに遭ったということを意識できる共同体の視点を獲得していることになる。
20 ヴィクター・ターナーによれば、境界段階で成立する社会関係(コムニタス)は、強い仲間意識で結束し、平等性・匿名性・財産の欠如・性の抑制・預言者への全面的服従などの特徴を持つとされ、賢治が生涯追い求めたところと殆ど一致しているのは注目されていいだろう。(『儀礼の過程』 富倉光雄訳 昭51 思索社)
21 小松和彦『神隠し 異界からのいざない』 平3 弘文堂)
22 既に指摘があるように、一郎には馬車別当のご機嫌をとったり山猫の提案した葉書の文面を批判したりする大人びた所があるが、それは一郎の微妙な位置を示すのであって、彼が大人になるのはやはり最終部分における自己省察であると思われる。
23 共同体において<いちばんばかで、めちやくちやで、まるでなつてゐないやうなの>とは、周縁に位置付けられている人間を意味するとも読めるが、これを<周縁に位置づけられた者が一番偉い>というふうに言い換えれば、遊離していると批判されていた申し渡しとストーリー展開がつながる可能性もでてくる。
24 一郎がなぜどんぐりを持ち帰ったのかも、よく論議にのぼるところだが、一郎の立場をちょうど反転させた形で、現実世界に紛れ込んだ異界の<自由な学童>として活躍が期待されていたと考えることもできる。
25 『注文の多い料理店』初版本の目次に付された日付によると、巻頭の「どんぐりと山猫」が(一九二一・九・一九)で、以降第六番目に収められた「山男の四月」まで日付順に並んでいるが、第七番目の「かしはばやしの夜」は(一九二一・八・二五)と最も古く、以下第八番目の「月夜のでんしんばしら」が(一九二一・九・一四)、第九番目「鹿踊りのはじまり」が(一九二一・一九・一五)となっている。
26 萬田務「宮沢賢治「どんぐりと山猫」解析 童話集『注文の多い料理店』研究(1)」(『京都橘女子大学研究紀要』 平4・12)
27 葉書は<あした>の裁判の通知が<ある土曜日の夕がた>に届いたことになっているから、九月十九日は土曜日だということになるが、実際の制作日である大正十年九月十九日は月曜である。こうした<虚構>まで使いながら、同じ日付にこだわったのには何か理由があったと思われるのである。
28 天沢退二郎『NHK市民大学 宮沢賢治の世界』(昭63年 日本放送出版協会)