「よだかの星」論  ――イノセンスへの飛翔――

信時 哲郎

 よだかは醜い鳥である。よだかという名前ではあるけれど、鷹の仲間ではないので、するどい爪もくちばしももっていなければ強くもない。たかはそれが気にくわない。ただちに市蔵と改名して、改名披露をしなければ、捻りつぶしてやる…… そう言われたよだかは困りはてて、虫を捕食しながら夜空を飛びまわる。

(あゝ、かぶとぶしや、たくさんの羽虫が毎晩僕に殺される。そしてそのたゞ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。あゝ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓ゑて死なう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだらう。いや、その前に、僕は遠くの空の向ふに行ってしまはう。)
 殺されるというのはなんともつらいものだ。しかしそんなことを感じる自分なのに、実際いままでどれだけたくさんの生命を奪ってきたのだろう。これがぞくっとさせられるほどの現実というものだ。ああ、いっそのこと、このままどこかに行ってしまいたい。そうしてよだかは空に翔けあがる。

 よだかの年齢はいくつぐらいであったか。それは人間が主人公となる童話と違って明らかにされていない。しかし、ほぼ「アドレッセンス中葉(『注文の多い料理店』宣伝文)」だったと仮定すると、「よだかの星」を、よだかの成長による現実との出会いの物語として読むことができる(1)。とすると、よだかに死の飛翔を決意させたのが、弱肉強食だとか鷹の脅しだとかいった、現実世界に生きていく上での具体的な悩みであったのではなく、現実的な悩みについて悩まなければならなくなるという悩みだった、と考えることができるようになる。

 さて、現実との出会いを中心にして読んでいくとしたら、まず、悩みを抱える以前のよだかが、どういう世界に暮らしていたのかを明らかにするべきであろう。

 「出会い」以前に明らかにされていることは、「よだかは、実にみにくい鳥」で、「ほかの鳥は、もう、よだかの顔をみただけでも、いやになってしまふという工合」だったということである。そしてもう一つ忘れてはならないのが、「夜だかは、ほんたうは鷹の兄弟でも親類でもありませんでした。かへって、よだかは、あの美しいかはせみや、鳥の中の宝石のやうな蜂すゞめの兄さんでした」という点である。このことは、よだかの風貌の並外れた醜さが強調されているだけに、読者の胸に、彼の内心が美しく可憐であるということを予想させるものとなっている。

 その美しい兄弟たちの交流の様子は、作品にほんの数行、よだかとかはせみの対話として描かれている。

「兄さん、。今晩は。何か急のご用ですか。」
「いゝや、僕は今度遠い所へ行くからね、その前一寸お前に遭ひに来たよ。」
「兄さん。行っちゃいけませんよ。蜂雀もあんな遠くにゐるんですし、僕ひとりぼっちになってしまふぢゃありませんか。」
「それはね。どうも仕方ないのだ。もう今日は何も云はないで呉れ。そしてお前もね、どうしてもとらなければならない時のほかはいたづらにお魚を取ったりしないやうにして呉れ。ね、さよなら。」
「兄さん。どうしたんです。まあもう一寸お待ちなさい。」
「いや、いつまで居てもおんなじだ。はちすゞめへ、あとでよろしく云ってやって呉れ。さよなら。もうあはないよ。さよなら。」
 感情の激するのを恐れてか、あえて言葉少なに別れを告げるよだかと、何から尋ねればよいのかわからずにいる弟との間には、思いやりとやさしさにあふれた、現実世界とは違った時間が流れているようだ。この美しい兄弟たちはイノセンスの世界に住んでいるのである。

 ところで作中人物たちの住むイノセンスの世界とはどんなところなのだろうか。それはお互いの関係が、愛や信頼といった「現実離れ」したものに基づいている世界だというだけでは説明不足だし、いわゆる「子供の世界」としてイメージされるものと、勝手にだぶらせて考えるわけにもいかないだろう(2)。近年、賢治のイノセンスについての言及があいついでいるが、ここでは「よだかの星」を読むことによって、イノセンスについて検討してみることにしたい。

 まず指摘できるのは、この世界においては、肉食の生物であるということさえ、いまだ罪悪とされていないということでる。それはかわせみが「魚を食べる」のではなく、「お魚を取る」という幼児語めいた表現で弱肉強食の現実をぼかして書かれていることからも想像できるだろう。弟よりも早く他の生き物を食べることの意味に気付いてしまったよだかも、あえてその意味について考えようとはしていない。イノセンスというのは、肉食をしないということではなくて、肉食がいけないとさえ意識しない幼さであり、また純真さなのである。よだかはまさに「意味という病(柄谷行人)」にとりつかれたのであった。

 イノセントな世界観のもとでくらしている兄弟が、現実に出会うという物語といえば、「たった二人だけずゐぶんたのしくくらしてゐた」「黄いろのトマト」のペムペルとネリの物語が思い出される。

 ペムペルとネリの兄妹は、二人だけで歌をうたったり、畑を耕したりして楽しく暮らしていた。ある時、畑に黄金色のトマトができると、二人はあまりの美しさにそれをほんとうの黄金だと信じる。音楽に誘われて街のサーカス小屋にやってきた二人は、人々が入口で黄金のかけらを渡しては小屋に入って行くのを見て、自分たちもあの黄金のトマトを渡せばサーカス小屋に入ることができると考える。畑からもいできたトマトをいざ番人に手渡すと、「馬鹿にするな」とトマトを投げつけられ、兄妹は人々の嘲笑のなかから逃げ帰ることになる。

 ペムペルとネリの兄妹もよだかの兄弟も、大人の世界に出会うことなく、子供たちの世界だけで生きていけたならば、決して傷つけられることなく、「ずゐぶんたのしく」暮らし続けることができたはずだ。つまりどちらもイノセントな子供の世界から大人の世界への通過儀礼を描いた物語であるということができる。そういえば「黄いろのトマト」の語り手は剥製の蜂雀であったが、それが「遠くにゐる」よだかの姉妹のひとりである蜂雀だったのかもしれない。

 しかし「黄いろのトマト」ではイノセントな存在が、大人の世界に出会うことを蜂雀に「かあいさうだ」と言わせるだけであるのに対して、よだかは一歩踏み出して大人の世界を拒否するに至っている点で多いに異なっている。よだかが改名を拒否してひとり夜空に翔け上がるということは、自らの成長を拒否していることにほかならない。

 よだかは鷹に向って「だってそれはあんまり無理ぢゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。いますぐ殺して下さい。」とまで云うほどに、改名しない意志がはっきりしている。しかし考えてみれば、よだかがかくも改名をいやがる理由は判然としないのである。少なくとも自然ではない。よだかに限らず、成長するということは一種の改名を決意することではなかっただろうか(3)。よだかの身にふりかかった不幸などというのも、実はそれほど例外的なことではないし、致命的なことでもない。市蔵に名を改めるということは、自分が鷹の仲間ではなくて、醜く弱い存在であると認めることであるから、改名さえすれば身の危険を感じることはなくなるはずだ。またこの改名事件から、強者の論理の前に弱者は屈服するしかないという原理を見いだすとすれば、よだかが虫を食べることも肯定されるかもしれない。とすれば鷹を傲慢な悪者であると捉えるより、なによりも大人であったと捉えることが可能だし、よだかがつまらないエゴイストであったと捉えることも可能になってくる。まさかそうまで言うつもりはないが、よだかがエゴイスティックなまでにイノセンスに固執していたということはできそうだ。

 しかし、イノセンスを守りとおすのに、ただ成長を拒否しつづけているだけでは何の解決にもならない。自分をとりまく現実世界の意味を実感させられてしまったよだかは、それを実感することなく楽しく暮らせたイノセントな子供時代に、もうもどることはできないからだ。黄金のトマトと黄金色のトマトの違いに気付いてしまった兄妹も、このさきどんなに美しいトマトを見ても、それが黄金であるなどとは思わないに違いない、なるほど子供のイノセントな世界認識というのはただの浅慮にしかすぎない。そして浅慮が浅慮であると気付いてしまった大人は、もう二度と再び浅慮であり続けることができない。成長を拒否したよだかには退行の道しか残っていなかったはずだが、それは成長する以上に困難なことなのだ。

 自分がイノセンスの世界にいたことに気付いた者、つまり非イノセントな大人ことが、真にその重要性を知るが故に全世界をもう一度イノセンスで満たすことができるのだ。しかしこれは「すべてのクレタ人は嘘つきである、とひとりのクレタ人が言った」というのと同じようなパラドックスに陥っている。萩原孝雄氏は「イノセントな子供時代から疎外され、距離を保つことによって初めて我々は、かつてイノセンスを所有していたこと、を理解する」として、更に「疎外を通じて、我々は、かつてイノセンスのうちにいたということばかりでなく、いまもまだイノセンスの中にいるのだということを理解する」と言う。これを氏は反対物の一致とか、メビウスの輪的状態と呼んでいるが、確かに賢治の世界観は氏の指摘するとおりだろう(4)。しかし「よだかの星」が問題としているのは、理想的なイノセントな社会の青写真ではなく、イノセントならぬ現実世界をいかにしてイノセントにしてイノセントにするかという実践の問題なのである。そしてこの夢幻的世界観を一歩現実にむかって進めようとする時、判対物の一致はただの反対物どうしとなり、メビウスの輪は裏と表に断ち切られ、パラドックスに陥ることになるのだ。この性急さこそが「よだかの星」を真に悲劇たらしめているのである。

(僕はもう虫を食べないで餓ゑて死なう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだらう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向ふに行ってしまはう。)
 よだかは弱肉強食を否定して餓死することに解決を求めてはいない。鷹に殺されることにもまた納得していない。弱肉強食という問題をかかえることがすでにイノセントではなく、大人の論理に従って殺されることもイノセントであるとは言えないからだ。しかしこうしてイノセンスの実現に向ったよだかは、同時に「何をすればよいか」「どこに行けばよいか」に対する明確な答をも永遠に得られないことになるのだ。となれば「遠くの遠くの空の向ふ」という、この世の外のどこかに一挙に行きたいという曖昧な考えしか彼の頭に浮かばなかったのも当然なのである。この遠くというのがいったいどこにあるのか、どうやって行ったらよいのかについて、よだかは全く知らない。答というよりは答えることからの逃避というに近いのだ。自分から「どこにもない」ということを前提にした上で、「それはどこか」と問うているのであるからまったく絶望的なのである。しかし、よだかはこの世ならぬ星に転生できたのであった。当のよだかでさえ、いかにしてそれが可能だったのか思い出すことができないのだ。ここでいままで一応ふまえられていた童話世界のリアリティーは一挙に崩れ、空想童話になる。結局よだかはイノセンスの実践に、どこから手をつければよいのかについて、教えてはくれないのである。「ポラーノの広場(初期形)」のファゼーロも、イノセンスの達成について、楽観的にこう述べるだけだ。

「そんならほんたうにぼくらのほしいポラーノの広場はどこにあるだらう。それはいまはぼくらの胸のなかにあるだけだ。ぼくらはぼくらの手でこれからそれを拵えやうでないか。あんな卑怯でみっともないわざとじぶんをごまかすやうなそんなポラーノの広場でなく、そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いやうなさういふポラーノの広場をぼくら、みんなでこさえやうでないか。ぼくはきっとできるとおもふ。なぜならぼくらがそんをいまかんがへてゐるのだから。」
 イノセンスを実現するための具体的な方法は、ついに述べられないままである。ただ本当のことを真剣に「かんがへて」さえいればきっと実現すると信じられているというだけのことだ。実践の問題はいつしか超能力願望にすりかわってしまっている(5)

 ところで、よいだかはしきりと「僕」を繰り返す。例の独白の場面だけでも、(……毎晩僕に殺される。……一つの僕が……僕はもう虫を食べないで……鷹が僕を殺すだらう……僕は遠くの遠くの空の向ふに……)という具合である。ここによだかの過剰なる自己意識を読み取るのは当然かもしれない。実際、よだかが改名を拒んだのは、自分らしい自分に対する執着があったからだという解釈があるし、太陽や星の助けを借りずに自分の力だけで星になるところに、他力を否定し自力を肯定する思想の現れをみることも広くなされているようだ(6)。自己愛、自己執着、自力、自閉といろいろな言い方はされているが、たいてい自分らしい自分だとか、自分のかけがえのなさだとかの話に還元されていく。確かに「よだかの星」が自己をめぐっての話であることに間違いはなさそうだが、まずそれがどういう「自己」であったかを明らかにすべきであろう。

 見田宗介氏は賢治の自己意識を<関係としての自我>と捉え、「(自己と他者の間の亀裂というような)関係の矛盾にたいして身を閉ざし、矛盾を自己の内部にはもたず、矛盾がただその外部からだけやってくる貧しい自我」ではなくて、「関係の矛盾を自我の内部につつみこみ、<外からの声>に向ってつぎつぎとその自我を開くダイナミズムを内蔵し、その中に巨大な苦悩の空間を張ることのできる自我」であったと述べる(7)。すなわち他者の存在をつつみこんだうえで成り立つ自我を自我としたわけであり、自己完結的に捉えられるものではないのである(8)。  本来、主観を前提としない客観はありえないし、客観を前提としない主観もこれまたありえない。「毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態」、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」状態を西田幾多郎は純粋経験と言ったが(9)、賢治のめざしたイノセンスもこの状態のことなのである。

 もちろん賢治はそんな純粋さを「めざした」というにすぎないのであって、この世界の住人であったということではない。そうした世界の住人になるということは、ある意味では理想的かもしれないが、もはや人間の定義をあてはめることはできないだろう。およそ差異というもののない世界、万物が一体となって、あふれんばかりの生命力に漲っている世界では、言葉の存在さえ想定できないからだ。しかししばしばその世界に出入りすることのできた賢治の経験は、作中の人物に反映されている。「虔十公園林」の虔十は、「雨の中の青い薮を見てはよろこんで目をパチパチさせ青ぞらをどこまでも翔けて行く鷹を見付けてははねあがって手をたたいてみんなに知らせ」たりする。「鹿踊りのはじまり」では、鹿の踊りにみとれていた「嘉十はもうまったく自分と鹿の違いを忘れて」しまう。彼らの周りには純粋な時間が流れ、主体と客体、自分と他人の距離はたいへん近くなっている。

 よだかをはじめとする子供たちがイノセントでありうるのは、自分が自分であることを、はっきり意識するために必要な他者との出会いがなかったからである。よだかがイノセントでない現実に向きあわされるということは、他者を経験するということでり、それは主客の分離、自他の分化を経験させられるということでる。そしてこの時、自己意識なるものが確立されるのである。

 現実のかかえる諸問題は諸問題としてなんとか解決しなければならない。しかし、さきから言っているように、「よだかの星」が問題とするのは、諸問題そのものではなくて、それに直面させられるということなのである。それがイノセントな子供が大人になるという通過儀礼の意味であり、自己意識の問題に引きつけて言えば、自己が自己であることを把握するということの不幸なのである。

それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の光のやうな青い美しい光になって、しづかに燃えてゐるのを見ました。
 大沢正善氏は、よだかが空に登っていく記述がはじめは「……したり……したりしているようだ」だったのに、「……しているのか……しているのか分からない」とかわるところに自意識の解体、つまり「自己とも他者とも無縁であるような非人称的な意識」を見ているが、よだかがはっきり自分を見つめることにより、自己のイメージを再確認してしまっているのではないかと指摘する(10)。これをどう考えるべきであろうか。

 さきによだかのことを「エゴイスティックなまでにイノセンスに固執した」と書いたが、イノセンスがどういう状態であるかを確認してきた今となっては、この言説が矛盾を含んでいることは明らかだ。つまり自意識を解体して、徹底的な純粋さを望むのが、結局強い自意識にほかならなかったというパラドックスが、ここに露呈してしまっているのである。

 積極的な近代的自我意識を仮に凸型の自己意識と呼ぶとすれば、イノセントな者がいだく自我意識は、凹型の自己意識と呼ぶことができるかもしれない。

 その凹型の自己意識がどのようにイノセンスをめざすかという方法は、よだかや「ポラーノの広場」のファゼーロのように、内心の純粋さをたよりにして、全世界のイノセンスが実現されることを信じるということであった。童話であればこそ「星になりました」というような結末に一気に飛躍できるところだが、現実の前ではたわごととして一蹴されるしかないということに、賢治も気付かないでいるわけにはいかなかった。ただの論理だとか童話の上だけではない「ほんたうの幸い」とは何であるのか、そしてそれはどうすれば実践できるのか――結局賢治の悩みはすべてここにいきつくようだ(11)

 さて、「ほんたうの幸い」という段になると、「銀河鉄道の夜」でジョバンニがカムパネルラに、それを求めてどこまでも一緒に行こうと言っていたことが想起される。そして自分が犠牲となって他人の生命を救うカムパネルラ、家庭教師の青年、いたちに追われたさそりの述懐などが、「ほんたうの幸い」に殉じた者として描かれていた、というようなことが思い出されてこよう。

 天沢退二郎氏は、自己犠牲によって他人を救済するというテーマが「よだかの星」には欠けているということなどから、自己犠牲を「ほんとうはもっと他の、別のかたちをとるべきであったものが、何らかの原因から深く歪んだまま現実との断面に接して癒着したもの」であったと言う(12)。たしかに賢治が実現しようと思っていた「ほんたうの幸い」を彼らが実現できたかと考えると、やはりだいぶ飛躍があり、また歪曲もあると言わねばなるまい。しかし、それはただ「自己犠牲を媒介とする幸福は、常に自己犠牲となる本人およびその本人をとり巻く家族友人の不幸を代償にするという矛盾(13)」があるからではなくて、誰かのための死は、まず自分と誰かとを分立させるイノセントでない世界観を前提としているからである。よだかと違って成長することを受け入れてしまった者は、そこに成立してしまった凸型の自己でもって自分がなすべき本当のことは何か、と自己イメージの明確化に悩むのだ。しかし「ほんたうの幸い」とは、自分だけがどうこうすればよいという次元の問題ではないのだ。

 イノセンスの実現を、「よだかの星」が凹型の自己の視点から描いているとすれば、一連の自己犠牲をテーマにした諸作は、凸型の自己から描いているということができよう。これを本論の視点にたって言いかえれば、「よだかの星」はほんとうの幸いを凹型の自己意識によって唯心的に解決しようとした(信じること)のに対して、自己犠牲をテーマとする諸作は、凸型の自己意識によって唯物的に解決しようとした(行動すること)のだということになる。「よだかの星」も自己犠牲系列の作品も、ともに「ほんたうの幸い」の実現という直接のテーマから疎外されているのである。一見すると遠く隔たっているような二つの傾向も、この意味ではたいへん似通っていると言うことができよう。賢治の作品にどこか承服しかねる点、すっきりしない点があるというのはもっともであるが、それは賢治の限界であるというより、かえって論理の透徹を示すのかもしれない。

(1) 松田司郎・『宮沢賢治の童話論 深層の原風景』(昭和六十一年・国土社)幼児性への回帰などについてはこの本に負うところがある。ただし氏の「よだかの星」についての見解とは異なるところが多い。

(2) 賢治は『注文の多い料理店』の宣伝文で、自らの童話を「少年少女期の終り頃からアドレッセンス中葉」にある「純真な心意んぼ所有者」「に対する一つの文学としての形式をとってゐる」としている。そしてその内容については、「どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人に畢竟不可解なだけである」と言う。ここで卑怯な成人に対立するものとして純真な少年少女が位置づけられていることは言うまでもなかろう。しかし、気をつけねばならないのは、賢治が少年少女の属性として純真さを発見したのではなくて、純真さを追求するうちに少年少女が視界にはいってきたという点である。「児童文学」が「純真さの文学」に発展したのではなくて、「純真さの文学」が「児童文学」の形式におさまったのである。賢治の童話が児童文学としてふさわしくないという評価はかねてよりあるが、決して的はずれではないと思われるのはそのためである。

(3) 大沢正善・「『よだかの星』論 ――修羅の視線――」(昭和六十一年三月・『日本文芸論叢』)に「名前は存在の可能性を導くと共に、それを束縛するものである。そして命名とは、名前が対他的な符丁として通用する社会への人称的な出現である」として「よだかの名前の拒絶は、日常的な昼の世界への人称的な出現に対する忌避を暗示しているのであろうか」という指摘がある。

(4) 萩原孝雄・『宮沢賢治 ――イノセンスの文学』(昭和六十三年・明治書院)

(5) 吉本隆明・「賢治文学におけるユートピア」(昭和五十三年二月・『國文学』。学燈社)をはじめとして、氏は賢治の超能力願望について何度か触れている。

(6) 例えば森一郎・「宮沢賢治『よだかの星』 ――作品論と学習指導――」(昭和五十年二月・『岡山大学教育学部研究集録』)を見れば教育の現場で、こうした解釈がなされていることがわかる。

(7) 見田宗介・『宮沢賢治 ――存在の祭りの中へ』(昭和五十九年・岩波書店)

(8) 木村敏・『人と人との間』(昭和四十七年・弘文堂)に、ドイツ人と日本人のメランコリー患者の罪意識について比較した論考がある。ドイツ人は本来のあるべき自己を実現しえない時に罪を感じるのに対して、日本人は、他人に対して義理が果たせない時に罪を感じ、それは他人に対する「済まなさ」や「申訳なさ」の気持ちである。これは自己意識の違いにも結びつく。すなわち日本人における自己は、天涯孤独では成立せず、常に他者を内に含んで成立するということになる。見田宗介氏の賢治の自己観とてらしあわせて考えれば、賢治は並外れて日本人的な自己意識の持主だったことになる。

(9) 西田幾多郎・『善の研究』(昭和二十五年・岩波文庫)

(10) 「学者アラムハラドの見た着物」という作品のなかでは、人がどうしてもしないではいられないことは何かという学者の問いに対して、生徒たちがそれぞれ自己犠牲や、いいことであると答える。そして最期にセララバアドはこう答える。「人はほんたうのいゝことが何だか考へないではゐられないと思ひます。」と。

(11) 天沢退二郎・『宮沢賢治の彼方へ』(昭和六十二年・新増補改訂版・思潮社)

(12) 近江正人・「『みんなの幸い』探す旅 『青い鳥』との比較を通して」(昭和六十二年十一月・『宮沢賢治 7』・洋々社)